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Channel: るんぺんさんの一撃
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マンマウンテン③

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マンマウンテンもついに最終回
さて、最後の山を登ろう。


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             中央がマン・マウンテン・カノン。
             双子の山を両脇にこのクライベイビーもご満悦

 

ここからしばらく、太字の部分はきついプオタ以外は飛ばし読みしてね。

マンマウンテン・カノン対イリオデパオロ戦


 
さらに別のマンマウンテンも
1914年生まれのマンマウンテン・モンタナだ。

モンタナのこの相手はプロレス史上でガルガンチュア・クルス・ツエッヒの次に大きかったと言われる男。
このMaxエドワードパーマーは231㎝ともいわれるが、その死の際まで身長は伸び続けた。
棺桶に入るときは249㎝になったという。(19271127 198457日)。
パーマーの別名Paul Bunyan (ポールバニアン)とはアメリカ伝説上の8メートルの巨人きこりだ。
ちなみに私が若い頃に高身長レスラー1位とされたツエッヒは251㎝とされていたがたぶん嘘だ
レスラーの身長体重なんてものは世の大人達よりも信用ならんw


ついでに史上最重量のレスラー(360㎏)
レイスの偽兄の動画。



 感動した。こんな動画が見られる時がくるなんて・・
子供の頃、専門誌に載った彼の小さな白黒写真を穴が開くほど眺めた。
どんなレスラーだったのかと想いを馳せた。
想像通り全く動けておらず、うれしくなったw




さてここからは一般の人に。


高尾山、富士山、そしてその2週後に訪れたのはわりに近所の山だ。


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どこだと思う?



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     ケーブルカーもあるよ。途中までは楽ちんだ。


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 これは阿夫利神社下社、ここまでケーブルカーが来ている。  



そう、この山は「のぶ代」だ!

別名は大山という。
神奈川の人にはおなじみの山である。
   
この神社の登山口から頂上まで90分・・・・・
   

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  マジ嫌だ。こんな山道をを90分も。
  


前回前々回のマウンテンほどは甘くないようだ。

登りはじめて20分・・・
嫁が荷物を軽くしようとペットボトル半分の水しか用意してなかったのに気付いた。
こういうやつらが遭難するのであろう。
  


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水はないくせに天気が良くて汗は噴き出る。
上の写真のように夫婦のほっぺは桃色だ。




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途中にあったボタン岩というもの。
牡丹に似てるとのことだが全く興味が湧かない。


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      何度か見かけた実


食えないものには興実なし!
それよりも苦しくって死にそうだ。

途中で40くらいの夫婦と出会った。

「もういいよ、あたしうんざり。ずっと一緒の風景だよ。」

こう妻が夫に下山を説得していた。
気の弱そうな夫は頂上まで登りたかったみたいだったが、機嫌の悪い妻の表情に勝てなかった。

いけてない夫婦に別れを言い、いけてる夫婦である我々は頂上を目指す・・・・


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ついに頂上。ここが阿夫利神社上社だ。

前回までとは違い今回は強烈に登山だった。
この山では何人もの屍がいまだ発見されていないという。

またこの山は阿夫利山、さらに雨降山(あめふりやま)と呼ばれる。
阿夫利神社およびこの山は農民たちの雨乞いの対象だったとして有名だ。

「富士に登らば大山に登るべし、大山に登らば富士に登るべし!」

昔は大山と富士山の両山をお参りする「両詣り」も盛んに行われたという。

この短期間にこれを成しえた私は漢のなかの漢といえよう。



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頂上は少し雲行きが怪しい。
降られたらたまらない。



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   雨降神社で雨乞いでなく降らないでと願う妻





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頂上には売店。ペットボトル半分の水が突きかけていた我々もほっと一息。気温も低く寒い。
妻はタコ焼き、私は山菜そばを。
無愛想なおっさん店主は冷凍たこ焼きを袋からだし電子レンジでチンした。




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        この張り紙ww

    大山だけに、のぶ代でないがのび太山菜そばが来た。
  おまけにぬるい。
  でもここまで材料を運んできてくれただけで無愛想な店主に感謝だ。
  登山道からあまり見えない小さな隠しケーブルカーで運んでいるにしてもw



ではここらで大山で出会ったマンマウンテン達を紹介しよう。

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修行者なのか?頼んで写真を撮らせていただいた。
この格好で何度も頂上まで登っているらしい。
彼こそがマンマウンテンだ。

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            小さなマンマウンテン達も


幼稚園児の遠足まで・・・年長さんのようである。
聞けば頂上まで登ったらしい。
擦れ違う大人たち皆が口をあんぐり。
地元の昭和時代からこれを恒例としている幼稚園なのか?それともエリート養成幼稚園なのか?
その真実は分からない。

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   幼稚園児と共に我々も下山する。この写真に写る先生たちも仕事とはいえ気の毒だ。
 
8割がた下山したところで膝が痛くなってきた。
私は全くサスペンションの効かない体になっているようだ。

マジで痛い。
なんとかゆっくりゆっくり下る。
幼稚園児達ははるか先だ。

でもあとちょっと・・・
なんとか行けそうだと思ったところに強烈な便意が襲い掛かった。

「紙ないよ・・・・」

クソが!

水半分のペットボトルといい、なんて危険予測のない女なんだ。

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              動物は自由にひれていいなあ。




肛門を締めながら、なんとか阿夫利神社下の門までたどり着いた。

客引きの茶店のおばちゃんが



「おにいさん、足が痛いのかい。やすんでいきなよ。」


「絶対無理!」



何とか公衆トイレに飛び込んだ。



疲れた体でケーブルカー乗り場に向かう。

するとそのそばに上の危険なウンコのようなものがいた。

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    マムシの子だ。


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  こちらはは前回の富士山旅行で見たヤマカガシの子


両山で蛇を見ることができた。



「富士に登らばのぶ代に登るべし、倍達に登らば富士に登るべし!」


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うーん。疲れた。


                                      (完)





動くアルプス①

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マンマウンテンついでに番外編で「動くアルプス」について書く。
日本ではもう忘れ去られようとしているこの巨人。
これから長く続くことになるが、現代の世で彼を知ろうとする奇特な人々のために・・・



「大地の巨人」

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「イタリア天使」
 
ジョバンナという女の狭いクレバスをムリムリと押し広げ、ぬらぬらした巨大な頭が現れた。


1906年、1026日。

後にボクシング界、そしてプロレス界を震撼させることとなる動くアルプス・・・

異形の者がこの地に降臨した瞬間である。
偶然にもこれは私と同じ誕生日だ。
 
出生時の体重はなんと22ポンド(約10kg)。
 
「こんなデカい赤ん坊、見たことがない!」
 
近所のみならず、遠くの村からも彼を見に来る人が絶えなかった。
 
 
イタリア北部、人口3000人程度の小さな美しき村「セクアルス」Sequals
ここが後に世界を震撼させることとなる男の母なる大地だ。

巨大なものを捻り出したジョバンナは放心状態・・・

石工(石材を加工したり組みたてたりする職業)だったサンテ・カルネラはこういった
 
「とてつもなく大きな男の子だ。私達の最初の子だ。プリモと名付けよう。」
 
プリモとはイタリア語で最初、そして一番という意味である。
この規格外の奇妙な赤ん坊は、多くの点で将来一番を得ることとなる。
今はまだベッドの上で大人たちから見下ろされているが、数年後にはどの大人もプリモのことを見上げることになるはずだ。

驚異的なプロポーション・・・
それは次第に「大男総身に知恵が回りかね」と嘲笑されるようになっていく。
 
父サンテ、母ジョバンナ共に平均的な体格だった。
家族は高くそびえるアルプスのふもと、ハイジのペーター家のような粗末な小屋に住んでいた。

サンテはこの貧しい村のほとんどの男たちと同じように、石に複雑な模様を彫り成形することで生計を立てていた。
この村の石工職人たちの腕はヨーロッパ全土で高い評価を得ていたという。

しかし彼らは決してそれに見合った給料を得てはいなかった。
プリモ誕生後、さらに2人の男児を授かったカルネラ家の経済は、さらに困窮することとなる。
 
父は3人の兄弟が歩き始めるとすぐに石工職人としての技術を教えた。
2人の弟はプリモが別の世界に羽ばたいた後も、その伝統的な工芸の修業をしていた。
最終的に2人の弟はアメリカ(ニュージャージー州ニューアーク)とイギリス(ロンドン)でこの仕事に従事した。
後にプリモは興行でそれらの土地を訪れたとき、彼らに会うことを一番の楽しみにしていたという。
 
2人の弟は普通のサイズだ。
彼らは世の凡人たちと同様に普通の生活を送ることができた。

しかし必要以上に巨大な兄にそれは無理な話だ。
当時のフリークスには苦しみというおまけが必ずセットでついてくる。
 
万国共通、その苦しみをほんのちょっとだけ和らげてくれるのが興行の世界・・・
 
しかしフリークスには必ずハイエナのような男たちが群がる。
そしてそのうすらデカいものに白羽の矢をたて、本人が望まぬ列車へ強制的に乗せるのだ。
 
行き着く先は深い深い闇・・・・
 
その巨大な体躯がすっぽりおさまってもお釣りがくるような真っ暗な穴の中だ。
 
 
「愚鈍な少年」
 
巨人の多くがそうであるように、カルネラも子供の頃から山のように大きかった。
貧しかった彼の両親が仕事を探すべくドイツへ行ったとき、6歳のプリモは祖母とイタリアに残ったという。
8歳になる頃には普通の大人と同じ大きさだった。
一家が貧しかったのはプリモ少年が無駄に食い過ぎたからかもしれない。
 
8歳の大人プリモは、家具職人のところに年季奉公に通い家計を助けた。
学校にもできるだけ出席した。愚鈍ではあったが彼は平均的知能の持ち主であった。
 
「子供の頃は悲惨だった、本当に悲惨だった。」
後にカルネラは頻繁に上のセリフを吐いたと言う。
 
「私たち兄弟はいつも腹をすかしていた。私は懸命に働いた。しかし一向に生活は変わらない。そして学校ではみじめだった。私はそこに受け入れられるには大きすぎた。」
 
カルネラは笑いながらさらに続けた。
 
「私はスポーツに参加しなかった。なぜなら大きすぎ、そして不器用だったから・・・。学校とはとても辛く悲しい場所だった。」
 
ドイツで働いていた両親は第一次世界大戦でひどい目に遭い、1918年、重い足取りでどうにかこうにかイタリアへ戻った。。

懐かしい故郷の村、久しぶりに会う子供達・・・・

貧しいセクアルス村には優しい風が吹いていて、坂道を上る夫婦の背中を少しだけ押した。
 
ドアの向こうには、婆さんと子供達が待っているはずだ。
しかしドアを開けたら大男!
2人は腰を抜かした。
 
「婆さんの新しい男?」
 
「いやだねえ、あんたたちの息子、プリモじゃないか。」
 
その異常に成長したわが子を見て父サンテはこう言った。
 
「お前は本当に私たちの息子なのか?」
 
その時、プリモは11歳。食うものに困る生活なのに、さらに巨大化は進んでいた。
貧しい生活ではタンパク質が圧倒的に不足していたはずである。
もしカルネラ家が裕福なら、さらに巨大化していたはずだ
 
戦争はその後の家族の生活を一層苦しいものとし、今まで以上の飢餓へといざなった。
その後サンテは伝手を頼り、カイロに出発してどうにか仕事を得る。
父が家族にお金を送金し始めたとき、息子プリモは出発を決心する。
 
「これでもう一安心、独り立ちしてこの貧乏から抜け出すぞ!」
 
プリモ列車発進だ。
魑魅魍魎のうごめく興行という終着駅に向かって・・・・

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これはさすがに大人のカルネラ

(②に続く)

動くアルプス②

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              プリモ・カルネラ


「ブリキの太鼓

ギュンター・グラス作、ナチ党政権前後における自由都市ダンチヒを舞台とした「ブリキの太鼓」という素晴らしい映画がある。

3歳で大人になることを拒否し、自らの肉体の成長をとめた少年オスカル・・・
彼の目を通して見た滑稽で淀みきった大人の世界を描いた名作だ。
この主人公オスカルとプリモの成長は全くの逆である。

 
外見が3歳児の青年オスカル、彼はブリキの太鼓を叩きながら金切声でガラスを割るという特殊能力の持ち主だ。
ある日、両親とサーカスへ。
そしてテントの傍で小人のピエロから仲間に誘われる。



「君の仲間を信頼しなさい。我々は決して観客になれない。芸を見せないと馬鹿にされる。そして人生の舞台というものを奪われる。もし私たちが芸を見せないならば、世間という祭りの演壇を占領している連中は、群衆を集め我々を滅ぼそうとするだろう。」

プリモはこの舞台を見つけることができるのであろうか。



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                 実はいい年であるオスカル

 


セクアルスを出たプリモは・カルネラは12歳、伸び続けてきた背はすでに6フィート(190cm)に達していた。
まさか誰も彼を少年だとは思うまい。
実際、誰もが彼を大人だと信じ込んだ。
カルネラは不幸な少年時代だったと回想したが、実際には彼に幼年期や少年期なんてものはなかった。


貧困とその暴走する成長のせいで・・・


 
ほとんど無一文、精神的に子供である12歳の大人少年は、フランスに労働者としてたどり着くこととなる。その後の5年間、巨大な体躯のプリモは歯を食いしばって働いた。
馬のような外見の少年は生きるために、ただただ馬車馬のように働いた。


 


「私は一生懸命仕事した。食うものも食えず過酷な労働中に腹がすいて動けなくなったこともある。重いセメント袋を担ぎ、レンガを積み、私の父と同じ職業である石切場で死ぬほど働いた。苦しくとも私は故郷に戻ることができなかった。なぜなら私の居場所はもうそこにはなかったから・・・・。
子供の頃、私は全く悪いことをしていない。ただ時代と身長が悪かったんだ。」


 のちのインタビューで最後に彼はきまって笑顔で言った。


「なあ、無邪気な子供でいられる方法を教えてくれないか。」


 


17歳になったプリモは196cmになっていた。


必要以上にジャブジャブと脳下垂体から吹き出す成長ホルモン。
そこに過酷な労働、そしてプリモの巨大な睾丸からの男性ホルモンが、肉体を肥大させていく。

巨人症および末端肥大症の99%は下垂体腺腫による成長ホルモン分泌異常だ。
成長ホルモンは体を大きくするため当然タンパク同化作用を持っている。
骨、筋、内臓肥大・・・
カルネラの体は高身長はもちろん筋骨隆々、そして脂肪が少なかった。
これは貴重なたんぱく質をエネルギーとして使うことを防ぐため、成長ホルモンには脂質異化作用、抗インスリン作用があるためだ。
若き頃のG・馬場を思い出すと良いだろう。
しかしその後、巨人たちの肉体は速く崩壊へ向かっていくことになるのだが・・・・




ちょいと街を歩けばプリモには無神経な好奇の目が降り注ぐ。


長く伸びた顎、127cmの胸囲、そして大木のような四肢、ついに体重は113㎏を超えた。

その頃プリモは職を失っていた。
肉体が肥大するにしたがって、心も肥大していたのか?
もしかしたら傲慢になっていたからかもしれない。
なんにせよ腹を空かせたその巨体は、パリの通りを大股で彷徨った。


 
苦し紛れにプリモは移動サーカスというものを覗いてみた。



サーカス団の狡猾そうなマネージャーはプリモを見るなり



「おお!これぞ私、いや世間が待ち望んでいたストロングマンだ!」


 
「この体だけは誰にも負けねえ。まずはそれより飯を・・・・」



17歳でついにその場所を見つけたプリモだが、生涯に渡りそれに翻弄され、魂を滅ぼされることとなる。

「プリモ君、キミは一座の仲間を信頼しなければならない。」

このサーカスのマネージャーはプリモの体格の異常性を利用して、彼から金を絞り出した最初の男だ。


田舎村を出て5年、都会の荒波に揉まれたはずなのに、プリモは未だ愚鈍であった。
やはりそれ程までには利口でなかったのであろう。


愚鈍で巨大な青年には、汚い大人たちのたくらみから逃れるすべはなかった。


サーカスは彼のポケットに入るはずだった金をずるいトリックで搾取し、結果、プライドと自尊心を奪った。


プリモの魂を拷問にかけた最初がこの移動サーカスだったという。


 


「さあ野生の男だよ!見ないと損。世界一の怪力だ、アルプスから怪物がやってきた!」


その頃、サーカスやカーニバルにはアスレチックショー(アット・ショー)という余興がつきもので、そこにはボクサーやレスラー、そして怪力男が所属していた。


どの土地に行ってもプリモがディスプレーされたそのブースには、観客が押し合いへし合いなだれ込み、その青年の奇形に好奇の目を向ける。


ゴリアテならまだしも、人間でないもののように宣伝され、舞台上の巨体は恥ずかしさから少しだけ小さくなった。


 
「サーカスでの暮らしは大嫌いだった。何も良くなることはなく、非常に孤独で苦しい場所だった。舞台で低い唸り声をあげると、いつも自分が愚かな人間であるように感じたんだ。
分からないことばかりでよく鞭で叩かれた。お金が僕の手に渡ることなく、それはいつも支配人にかすめ取られたよ。村を出てきて労働者として働いた5年間はホームシックに苦しんだけど、サーカスとはそれを何倍にもするものだった。」


 
プリモが奇形の怪力男として宣伝された17歳の時には、すでに160㎏の重りを地面から頭上高く持ち上げることができたという。


 


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     これは19519月、ベルリン空港で鼻の下を伸ばしながらの怪力披露


 


アット・ショーでよく行われたのがサーカス所属のレスラーと飛び入り素人の闘いだ。
地元の力自慢の挑戦を大きな口上で募り、素人の中にサクラをうまく交えながら観衆の気持ちを操作するというサーカス人気の出し物である。


プリモも所属レスラーとしてその舞台に立つようになった。
多いときには一日に10人の観客の挑戦を受け退けたという。


最後に地元住人の一人がこの忌まわしい大男を負かすと観客は大喜び、それはサーカスにとって素晴らしいビジネスとなった。


 
サーカスに客が入らなかった場合は、マネージャーは特別なレスリングの試合をでっちあげる。この狡猾な男が街中に貼ったポスターにはこう書かれていた。


「恐怖の大巨人、あのスペインの著名なレスリング王者である「ジョバンニ」がローカルにやってくる!」 


スペイン王者「ジョバンニ」として、プリモは経験豊富な先輩カーニバルレスラー達の胸を借りた。それはモタモタしたひどい仕事だったが、田舎の観客はデカい奇形を見ただけで十分に満足し喜んだ。



結局、一座では3年間働くことになるのだが、終わりにはそれなりのカーニバルレスラーになっていた。


後にカルネラは当時をこう回想した。



「その18年後、ボクサーとして完全に終わりプロレスラーになった時だ。
私にはなんの不安もなかったよ。
あのサーカスでの経験が本当に役に立ったのさ。」


(③へ続く)


動くアルプス③

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                プリモ・カルネラ


「眠れる巨人」
 
ヨーロッパ各地を巡業したこのサーカス一座も1928年パリで解散してしまう。
プリモはその時21歳になっていた。
 
公園を散歩していた元ヘビー級ボクサーのフランス人「ポールジュルネ」はベンチの上で大の字になり、大いびきをかいている男に出くわした。
そこからはみ出したその巨大な体躯は、185cmの高身長だった元三流ボクサーを驚かせる。
 
ジュルネは腹をすかせ絶望的な顔をしている大男の隣に座り話を始めた。
ずいぶん年上のジュルネだったが、カルネラと2人ベンチでの並ぶ姿は大人と子供のようだった。
 
「ボクサーになれば腹いっぱい食えるようになるぞ。」
 
これこそが「プリモ・カルネラ」の素晴らしくも悲しいボクシングキャリアを始めさせるに、もっとも簡単な口説き文句だった。
 
その後、山のような男カルネラは、血と汗と涙を流し、たった5年でボクシング世界ヘビー級チャンピオンという山の頂点まで駆け上がる。

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  ポールジュルネ
            1893年生まれ、(357 (KO )  27 (KO 20)1

「※19304月のリング誌にはトレーナーだった彼がカルネラの権利を25%持っていたことが書かれている。後にカルネラがアメリカのギャングに水揚げされる日、彼の取り分は約25万フランだった。」
 
 

カルネラは後に言った。
 
「もし私の生活がどん底でなかったとしたら、ジュルネと一緒に僕の最初のマネージャーとなる「Leon Seeレオン・セイ」のところに行かなかったでしょう。」
 
これは多分違うだろう。こういうのは宿命といった類のものである。

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                  レオン・セイ



カルネラのヨーロッパ時代のフランス人マネージャー「レオン・セイ」。
ポーズを決めたカルネラの上腕二頭筋の下でご満悦のこの騒がしいフランス人は真実が分かる男だった。
彼は奇形こそが人々をひきつけることを知っていた。

オックスフォードで学位を受けた頭脳、計算高い抜け目のない性格・・・

しかしカルネラに言わすと、彼は情に厚い素敵な男であったという。
後にアメリカへ渡ってカルネラはひどい目にあうこととなるのだが、セイのことだけは決して悪く言わなかった。
 
僕に何度も良くないことをしたけど、本当に大切な友人だった。」
 
セイはカルネラを世界一強い男性だと宣伝し、即座に試合を組みたがった。
それは多くの誤りの始まりだったともいえる。
当時21歳のカルネラはボクシングの素人だった。
その肥大した筋肉は強靭だったが、それをうまくコントロールできず、遅く不器用だった。
 
セイとサインした二週間後(19289 12日)、この巨人はパリに忽然と現れた。
 
早速組まれた「レオン・セビロLeon Sebilo」とのデビュー戦
セビロはこれまで18敗、レベルの低い疑わしい評判のあるパリジャンである。
セイはボクサー達が大好きで、彼らのキラキラした初舞台が特に好きであった。
しかしこのフリークが稼ぎ出すであろう金の誘惑に逆らえず、セイはまだそこに立つべきでない素人を働かせた。
 
2ラウンド、カルネラはスローモーなスイングでセビロをマットに沈めた。
集まった観客は大喜びで、馬のようなカルネラも歯茎をむき出してその喜びを表した。
 
小柄なセイはたき火から弾けた焼き栗のようにリング内に飛び込んだ。
そしてカルネラを抱きしめ、というか抱っこされ、
 
「トレビアン、お前は未来の世界チャンピオンだ!」
 
遠い位置にある巨人の耳に、そんなセイの甲高い声が強く響いた。
 
しかしそれが客に見せるだけのレベルにあったのかどうかということは、セイだけが知っていた。
カルネラ自身へさえ何も知らされていなかった。
セイはこの初戦の内幕を、後の世になっても決して語ることはなかった。

試合の後、セイはカルネラの心にうまく入り込んだ。
いつもカルネラのそばにはセイがいて、巨人の読む新聞記事までいちいち検閲した。
なぜ心に入り込めたかということを考えると、それはセイが狡賢かったからではないし、カルネラが知恵遅れだったからということでもない。
調教師セイはこの大きな馬のことを本当にかわいく思っていて、馬はそんなセイのことが単純に大好きだったからだ。
 
観客の反応からこれは商売になると興奮したセイは、トレーニングキャンプをはりカルネラを鍛えた。
しかしそこにはすぐに問題が生じる。
 
鈍重なのはともかく、カルネラの顎が弱いのは誤算だった
45㎏以上軽いスパーリングパートナーのパンチにその巨体はよろめいた。
間違ってはならないことだが、カルネラはとても勇敢な男で、それはボクシング時代のフィルムをみても明らかだ。
強靭なボディは鋼鉄で出来ていて一日中パンチを受けても平気だったという。
反面その突出した巨大な顎はガラスで出来ていて、狡猾なセイはそれを見抜くのも早かった。
 
グラスジョーなのは仕方がない。セイはせめてディフェンス技術の初歩を教えようと躍起になった。
しかしセイはこのフリークの稼ぎ出す魅力には逆らえず、並行して1年ちょっとの間に怪しげな試合を18個も組んでしまうことになる。
まあこれらの闘いが鑑賞に堪えられるレベルだったかどうかは議論の余地があるのだが、セイは賢明な男だった。
セイは大金を稼ぐにはその奇形が無敗であるということこそが重要であるということを知っていた。
彼は巧みなマッチメイキングでそれを守った。


カルネラのヨーロッパ時代の試合にはいくつかのリアルファイトもあったのかもしれない。
しかしこの素人巨人の実力は、操作なしでその一年間を全勝するには足りなかった。
 
 

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「※19289月にデビューしてから1930年にアメリカに渡るまで、カルネラはヨーロッパを巡業し18戦、16勝(12KO2反則負けという素晴らしい成績を残した。
(仏10、伊1、独2、西1、英3
そのほとんどが早い回でのノックアウトである。
このヨーロッパ時代、体重が記録に残っている13戦の平均は123㎏(最高体重129㎏)で対戦相手の平均体重は90㎏である。
ほとんどの試合でカルネラには約35㎏のアドバンテージがあった。
                   
(④に続く)

動くアルプス④

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                                                 カルネラファミリー


「ママの抱っこ」

 

素晴らしい成績だったヨーロッパ時代の2つの反則負けを振り返ってみよう。

 
巡業7目ではこれまでの相手よりは少しましな「フランツ・ディナー」に1ラウンド反則負け。(ディナーは2627年にドイツヘビー級王者)
これはマネージャーであるレオン・セイの興業上の策略だったのか?
巡業の最終戦ロイヤルアルバートホールでは6KO勝ちで雪辱している。
(初の15回戦)

 

さて、もう一つの反則負けを喫した相手というのは大物だ。
歴史に残る強豪、「ヤング・ストリブリング」との2連戦を振り返ろう。

 
まずはロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで行われたカルネラ16戦目から書かねばならない。(19291118日)


サーカスの人気アクロバット芸人だった両親を持つストリブリングは当時24歳。
米ジョージア出身のハンサムな若者は、この時点ですでに196914分という素晴らしいキャリアを積んでいた。

サーカスのベビーボクシングから始まった彼のボクサー人生、その恐ろしいまでの息子の素質に成功者であった両親はサーカスをやめ、サポートに専念するようになる。

 
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ストリンブスのあだ名は「マ」・ストリブリング。
この「マ」はママの意でマザコン。
トレーナーとしてはリングに上がれない大柄な母親・・・
彼女は、毎試合客席から大声を出して息子を叱咤激励したという。


36㎏も重いカルネラはこの小さなファイター(といっても185cm)に大観衆の前でさらし者にされてしまう。
ボディブローとその出入りの巧みさ、そして名人芸と呼ばれたフェイント技術により、スローな巨人のダンスは、滑稽を通り越し哀れみさえ感じさせた。



3ラウンド、なんとかカルネラはマザコン男から軽いダウンをとる。
しかしすぐにダウンを取り返された。
二人の実力差は明らかだ。

4ラウンド、カルネラはベルトライン下を打たれ悶絶する。
巨大な玉を撃ちぬかれたのだ

そして泣きそうな顔でその大きな持ち物をさすり、二度と立とうとはしなかった。
(カルネラ反則勝ち)。

 

1カ月もたたないうちに、パリの大きな競輪場で決着戦が組まれた。(127日)。
レオン・セイの思惑通り、決着戦には多くの観客が詰めかけた。

マザコン強者は197cmの素人相手に序盤から明白なリードをとった。
7ラウンド終了ゴングが鳴る。

優勢であるハンサムなマザコン男は客席のママを見て得意げな笑みを浮かべた。


「くそ、俺なんかデカすぎてママに抱っこされたことがないというのに!」

イライラの募ったカルネラは、ゴング後コーナーに帰ろうとするマザコン野郎の後頭部を、カボチャのような拳で思いっきりぶん殴った。

少年時代のモヤモヤするものを吹き払うように・・・・


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         ママとプリモ


舌を出した猪木みたいに、うつ伏せでピクリとも動かないマザコン・・・・
仕方なくレフェリーはカルネラの失格を宣言したという。

 後年、この2戦には筋書きがあったのではないかと疑われた。

当時ストリブリングの生死を心配した観客は、後にこの八百長疑惑により坂口みたいな「人間不信」に陥った。

うつ伏せで舌を出し、腹の中でも舌を出していたマザコンのせいで・・・

マザコンは最終的にボクシングの殿堂入りを果たすことになる。(生涯成績252223 (KO 127) 13 (KO 1)  14引き分け

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               反則打で寝るストリブリング    

※「ストリブリングは16歳でプロデビューし、最初はバンタム級から始めたが、成長と共に年々体が大きくなり階級を上げた。初の世界タイトル挑戦は1926年、21歳の若者はライトヘビー級王座に挑んだが惜敗。
さらに成長し28年の1年間になんと38戦全勝(33KO)、世界ヘビー級1位へ上昇した
1931年7月(26歳)、ついにトップコンテンダーとしてオハイオ州でマックスシュメリングに挑戦も14秒残し無念の14回TKO負け(ファイトマネーは王者27万3710ドル91セント、挑戦者3万3168ドル24セント)」


                  
 
ストリブリング初戦の少し前、スコットランドのグラスゴーで同日に行われた4つのエキシビジョンの記録が残っている。
カルネラは一日で4人の名もない相手をバッタバッタとなぎ倒した。
このような手法で観客を喜ばすカルネラのEXは、後のアメリカで何度も何度も行われることとなる。


「芸者カルネラ」

 

ヨーロッパでのマザコン対カルネラ戦を葉巻をくゆらせながら眺めていた男がいた。

彼の名は「ウォルター・フリードマン」。
ギャングの手下であるボクシングマネージャーである。

彼は一流の人気選手ストリブリングよりもイタリアの奇形に金の匂いを嗅ぎつけた。
レオン・セイと同じく、奇形こそが大衆を引き付けるという真実を知っていた切れ者であった。
すぐにアメリカに戻り、闇の男にカルネラというものの価値を、唾を飛ばしながら説明した。

そしてカルネラという芸者はその闇の男に水揚げされることになる。

この旦那こそ殺し屋、ゆすり屋、密売屋として悪名高いだギャングスター「オウニー・マディン」・・・

この暗黒街の顔役にカルネラの権利は買い取られた。


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                  Owney "The Killer" Madden
                 
           
 
ここでレオン・セイはこれからさらなる大金を生み出すであろう競走馬を、はした金で横取りされた形となる。

しかしセイはカルネラがアメリカに渡ってからも、カルネラの側近として、そして変わらぬ友人として、そのままギャングに雇われた。

 
マディンは表に出ず、その手下のギャングである「ビル・ダフィ」、
前出の「フリードマン」、そしてボクシング業界の「フランク・チャーチル」など複数のマネージャーがこのイタリア巨人の傍に置かれた
彼らを隠れ蓑に、カルネラの稼ぎの大部分をかすめとったのが、その陰にいたギャングスター「マディン」である。

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抱っこされるギャングなマネージャー「ビル・ダフィ」。彼も本物のギャングだ。



彼らはカルネラに「The Ambling Alp」というニックネームをつけた。
これがあの日本でも有名な「動くアルプス」だ。
マディン達はフリークに大金を産み出させるため、多くの仕組まれた試合を作りだした。


その巨大な山は海を渡り、新大陸へ・・・


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             暗黒の未来に向かって
 
                 

                   (⑤に続く)

動くアルプスお知らせ

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すみませんでした。
本日更新した④の写真が表示されていませんでした。
よかったらもう一度見てください。


動くアルプス⑤

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                      プリモ・カルネラ 仕立て屋にて。




1930年、アメリカへ」


 
カルネラはギャングマディンの指示通りにアメリカ各地を遠征の旅へ出た。


アメリカ初戦は1930124NY3代目MSG
黄金のギリシア人「ジム・ロンドス」がここを何度も大入り満員にしていた頃にあたる。


 
この日カルネラを見るために集まった観衆は17692人。


 カルネラのコーナー近くに集まっていた悪人達の関心事は、観客をうまく騙せるかということだけにあった。
悪い顔、悪い心を持った図々しい男達でも、その悪い試みが成功するかどうかについてはやはり不安になるものだ。


欧州で買った巨人のショーが出だしで躓けば、これからの計画はパーだ。


もちろん対戦相手にはきつく言い含めてあり、観客にショーを提供する準備は万端。
観客を除けばこのショーの結末を全く知らないのはカルネラだけであった。




その夜、リングに入場するプリモ・カルネラは、人間にはまるで見えなかった。


これは意図的な演出だった。


花道に現れた巨人の後には背の低いレオン・セイ、さらに慎重に選びだされた小人サイズの男たちを続かせることは当然だ。
観客達はその人でないようなものを見て硬直し、口をポカンとあけている。


 

カルネラは普通のボクサーが着るガウンを着ていなかった。


不気味な緑のベスト、異様なバイザーキャップ、そしてイノシシの頭の刺繍のついた黒いトランクス・・・・


窮屈そうにロープをくぐったカルネラは、すくみ上がっている観客たちを見まわして満足そうにニタリと笑った。


 相手は183cm95㎏、「ビッグボーイ」というあだ名のクレイトン・ピーターソン。
このビッグボーイとやらでさえ、122㎏のカルネラより27㎏も軽かった。


 
ゴングの前に、一部の記者たちがなんだかインチキくさいなとおもしろおかしくぼそぼそと呟いていた。


しかしあの晩、ガーデンでの一大スペクタクルを目撃した人々の声は、そんな呟きをかき消した。


 
カルネラの馬鹿でかく強烈な風貌、そしてピーターソンをドシドシと叩くその筋肉の重さ・・・


 相手の三流ボクサーは第1ラウンドに4度もマットに気持ちよさそうに這いつくばり、レフェリーは彼らの茶番を停止することとなる。


 

集まった観客はともかく喜んでいた。


そして舞台裏の悪い男たちは、観客が引きつけられ、ショーへの道筋ができたとそれ以上に大喜び、元来悪相であるその悪者たちの顔は、これからの金勘定でさらに醜い顔になった。


 


控室に戻ると、レオン・セイが部屋中を喜んで跳ねていた。


セイはカルネラの輝かしい未来について記者、ギャング、さらに視界に入る人間すべてに大声で話さずにはいられなかった。


 


カルネラはテーブルの上に座り、飼い主たちに取り囲まれていた。


大きく優しい茶色の瞳は潤んでいて、ギャングの向こうで飛び跳ねる大好きなセイを見て幸せを噛みしめた。


その晩、カルネラは故郷セクアルス村の両親に誇らしげに海底電報を送り自分の大勝利を伝えたという。


「それは僕の田舎町で、今まで誰も受け取ったことのない初めての海外からの電報だったんだ。本当にあの一戦は感動的だったよ。」


 


カルネラが天下を取る前の時代の一流ヘビー級ボクサー(デンプシー、タニー、シュメリング)などの身長は185㎝以下、体重90㎏程度である。


カルネラが後に世界挑戦する王者エディ・シャーキーも、若干重いだけでそうは変わらない。


イタリア人の平均身長が170cmに満たなかった時代、197㎝、120㎏越えのカルネラは明らかに異形のものだった。


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※「昭和63年のソウル五輪、レノックス・ルイス、リディック・ボウという動ける巨人が現る。彼らがプロボクシングで活躍するようになるまでの相当長い期間、ジェス・ウィラードやカルネラのような190㎝以上の奇形はうすのろだと、ボクシング界では相場が決まっていた。(ウィラードは198cm、黒人初の世界ヘビー級王者ジャック・ジョンソンをキューバで疑惑の試合で倒し王者、さらにデンプシーにぶちのめされたトレドの惨劇で有名。)」



カルネラはMSG から始まったこの全米巡業で23試合と30以上のEXを猛スピードでこなすこととなる。(917日までの約9か月間)。
 
ギャングはボクサーとそのマネージャーを脅迫、そして彼らに負けを強要し、州から州へと八百長試合をして渡り歩いた。
ギャングとギャンブラーがともに働き、脅迫と暴力で大きな金を得たのである。
それは血も涙もなく、愛のかけらもない法外な詐欺行為であった。
 
23戦のほとんどは早い回でのKO勝ち、そのほとんどは仕組まれたものだったと言われている。23戦全勝22KO 、計46ラウンドでこれには1つの反則勝ち含む)
悲しいことに、当事者のカルネラが知らない片八百長であったという。
 
この23戦のうちで重要な試合は33日、フィラデルフィアでのアメリカ巡業8戦目。
5ラウンドまでウスノロ巨人を打ちまくった黒人ロイ・エース・クラークは得意そうな顔でラウンド間の休憩を満喫していた。

すると氷のような冷たいような表情をした小さな男が、コーナー下にやってきた。
高価そうなコートを観客に見えぬよう少しだけ開き、この露出狂はその中に隠しているものを見せたという。
 
「ここで頼むぜ、エース・・・。」
 
弾が込められた鈍く黒光りするものは、男であれ女であれすくみあがらせる。
この男根よりも危険な金属を見せつけられたその30秒後・・・・



クラークは望んでいるかのように自らキャンバスにダイブした。
                        (6RカルネラKO勝ち)
 
 
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          (動くアルプス⑥に続く)




動くアルプス⑥

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プリモ・カルネラ ちょいハンサム



「投げられたタオル」

さらに1930年414日、カリフォルニア州Emeryvilleのオークス球場。
黒人レオン・ボンボ・シェバリエとの一戦は、歴史に残る問題を引き起こす。


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「このうすらデカいのを叩きのめす!」

上の写真で不機嫌そうな顔を見せているこの黒人は、戦前からこう言い張り、試合でもその通りに戦った。
スローな大男は明らかに追い込まれていた。

ラウンド合間、コーナーに戻った黒人に、自軍のセコンド「ボブ・ペリー」が彼の耳元で囁いた。

 「カルネラに勝つと撃ち殺されるぞ!」

 しかしシェバリエは自分の意思を曲げずに戦い続ける。

すると味方であるはずのペリーは、彼の目と鼻に多量のワセリンを擦り込んだ。
ペリーはこの試合の為、シュバリエのマネージャーであるティム・マクグラースが連れてきたセコンドであった。
味方が敵だったのである。

ワセリンで半分目が見えなくとも、シェバリエは戦った。

6ラウンド、シュバリエはレスリングでキャンバスへ押し倒されたお返しに、ボクシングでその巨人を打ち倒した(9カウントのダウン)。

 カルネラ大ピンチ!

 この6ラウンド、シェバリエは明らかな優勢だった。

そこに突然タオルが舞った!

シェバリエ優勢で全く倒されることなど考えられないというのに、どういうわけセコンドペリーか突然にタオルを放り込んだのだ。
リングは混沌に陥った。

敗北の象徴が空中でひらめくのを見て、レフェリーはラウンドを中止、カルネラの6RTKO勝ちを宣言する。

観衆の驚きはやがて怒りに変わり、拳を固めタオルを投げたペリーに殺到。

「この試合は八百長だ!」

そこには暴動が巻き起こった

明らかに妙な試合であったため、カリフォルニア州体育委員会はカルネラのライセンスを剥奪した。

この黒人ボクサーのマネージャーでもあり、当日チーフセコンドとしてシュバリエコーナーについていたティム・マクグラースは、

雇われセコンド(ペリー)にはこのような権限はない、だがあの気違い野郎は唐突にタオルを投げやがった。」

これが真実なのか、それとも嘘なのか、なんにせよこの汚いマネージャーは記者達にこのようにまくしたてた。

後の調べで、ペリーはカルネラの西海岸でのマネージャー「フランク・チャーチル」からサンフランシスコのホテルで酒池肉林のもてなしを受けていたことが判明した。
(もう一人の当日に雇われたセコンド「ボブ・ラガ」も同様であった。)

 
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           様々な有名選手のマネージャーを務めたフランク・チャーチル

 

不思議なことに、チャーチルは試合中シュバリエのコーナーで陣取っていた。
問題発覚後これを追及されたチャーチルは

「カルネラのコーナーに椅子の数が足りなかったんだ。」

腐敗しきったボクシング界の有名な住人はずうずうしくもこう説明した。

次の日の公式調査、カリフォルニア・アスレチック委員会にシェバリエが出廷したので、より多くの詳細が分かってきた。
試合入場の花道で、ペリーが脅してきたことをシュバリエは証言している。

 「カルネラに負けないとどうなっても知らないぞ。」

 および2ラウンドにペリーがシェバリエに言った言葉が残っている。

「カルネラのパンチで寝ろ、でないと俺が心臓を吹き飛ばし眠らせてやる。」

黒人はそれにこう返した。

「御免だ、俺があのでかいイタリア人を眠らせるんだ。」

 
薄汚いペリーはその調べですぐにサスペンドされた。

さらに1週後、カリフォルニア州コミッションはカルネラならびにその闇に巣食う悪の集団に対し、この州での活動禁止を決定した。

もちろんカルネラの友人「レオン・セイ」にもこれは当てはまり、さらにシェバリエの灰色マネージャー(マクグラース)にも無期限のサスペンドが言い渡された。

そして422日、シュバリエは全てにおいて罪がなく、完全に潔白であるとコミッションは発表した。

 ※「シェバリエの妻が提出した銀行記録によると、夫はこの戦いの準備で、少なくとも900ドルを受領していたが、これは八百長に関係ないとされた。彼女はチーフセコンドについたティム・マクグラース(マネージャー)のことは許したが、他のよく知らない2人のセコンドのことを法に訴えた。」



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      これは10年以上あとの1943年の写真  
           


 

悪の集団はこの一件で反省し謹慎するのか?

まさかそんなことはありえない。こんなもんは興行を打つ州を変えればよいだけだ。

 

そのたった8日後、オレゴン州ポートランド。

カルネラはサム・ベーカーというどうにもならない3流ボクサーを5度倒し、恥ずかしげもなく1ラウンドKO勝ちを飾る。

さらに65日、ミシガン州デトロイト。

15000人の大観衆の前で強打者「K O クリストナー」とやらを1ラウンドTKOで葬った。

 
そしてこの試合の後、カルネラはキツイ黒人2人と連戦することとなる。

馬のようなイタリア人は馬脚をあらわすことになるのであろうか・・・・

 
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           こちらは馬腕を露す・・・そしてちょっとハンサム


   (動くアルプス⑦へ続く)

動くアルプス⑦

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プリモ・カルネラのゴルフ


「悶絶世界王座挑戦」


 


「1930年623日、ペンシルバニア州フィラデルフィア」

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             George Godfrey

 


黒人強豪ジョージ・ゴドフレィ戦。(アメリカ巡業18戦目) 


 大きくて動きが早く技術のあるパンチャーのゴドフレィ。
彼はこの日カルネラに負けていくひどい時間を味わった。


この黒人は巨大なイタリア人相手に戦うことはもちろん、強く殴ることさえ禁じられていた。
黒人は5ラウンドにカルネラに反則行為をすることによって、ようやくそのジレンマから解放されることになる。(5回カルネラの反則勝ち)


 
試合後、この試合を奇妙に思った記者たちがゴドフレィの控室に来て、カルネラがどんなに強かったかを尋ねはじめた。


 大きな黒んぼはにっこり笑ってこう言ったという。


 「強いだって?あんな遅いパンチじゃ俺の妹の赤ちゃんだって倒せないさ。」


 
記者は大笑いし、次にカルネラとギャングのいる控室に行こうとした。


するとゴドフレィは急に表情を変え、焦りながら言ったという。


 
「しかしあの巨大な白人少年のパンチはなかなか良かったよ。」


 


私はこの191cm113㎏の大きな黒人とカルネラの試合フィルムを見た。
ダルなファイトが続いた5ラウンド目、黒人の放った左ボディアッパーがカルネラのタイツの中のアルプスをかすめた。


ところで股間を打たれて悶絶することに関し、確かに名手というものが存在する。
ジャイアント馬場なんかはそれが本当にうまかった。


しかし世の男色家の皆さんはその世界の王者がある男前で決まりだといって譲らない。
 
「端正な顔を歪ませ、そこで一拍、そして巨体を硬直させながら崩れる坂口征二・・・・」

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             コブラクローに備えるビッグサカ(荒川、小沢と)
 



睾丸を押さえリングに仰向けの泣きそうなカルネラ。
朝礼で小便を我慢する女の子のように内股でもじもじしている。
これは英国でマザコン男第一戦でも見せたカルネラの得意技だ。


さらにその巨体をよじってうつ伏せになり、尺取虫のようにひょこひょこと地を這った。


 
「この坂口対カルネラの悶絶対決・・・」


女好きの私の判定ではあるが、カルネラの試合映像が粗い所とシン・上田の極悪さ、そして男色家の皆様の声援の分、微差で世界の荒鷲の勝利といったところだ。


柔の道で世界一にはなれなかった坂口だが、この道では世界一を勝ちとった。


 


続いて717日ネブラスカ州オマハ。


玉を押さえながら女の腐ったような勝利を飾ったカルネラの次戦。


これまた相手は黒人強豪「エド・ベア・キャット・ライト」である。

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          ベアキャットライト父


 


そう、これは皆がよく知るあのベアキャットライトの父だ。


 頑丈な肩、太い腕のライト父(185cm99㎏)は攻防兼備の無冠の帝王。残念ながら彼の全盛期は黒人ボクサーにとっていろいろと難しい時代であった。


 
カルネラは当時451012 引き分けのこの名ボクサーを4ラウンドで粉砕する。
それは最近の試合の疑惑を跳ね飛ばす、センセーショナルなKO勝利だった。
スナップのきかない鈍重なプッシュパンチがこの一流(力は落ちてきていた)に通用したかどうか、その真実は分からない。
しかし世間はオマハで行われたこの試合でカルネラの力を少し認めだした。


 


 
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            こちらはベアキャットライト息子


「※ちなみに息子「ベアキャットライトJr」は199cm
1951315日にKOでデビューした。
52429日までの生涯ボクサーキャリアは88勝(5KO)、その8戦での平均体重は106㎏である。
ボクサーとしては父に遠く及ばないが、その後レスラーとして黒人初の世界王者となり、無冠の帝王と呼ばれた父の雪辱を一応晴らした。」


 



この試合から917日まで4つの早い回のKOと多数のEXで金をギャングに上納したカルネラ・・・・・

反則負けでない敗北がついに訪れる。


ボストンでのカルネラ対ジム・マローニー戦、これはアメリカに渡って24戦目。
(トータル42戦目)

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                 マロニーちゃん

この地がホームタウンのこの白人ボクサーをギャングは買収できなかった。
スローな大男はこの32㎏も軽い男に打ちまくられ、初めて判定を落とす。


その5か月後、マイアミMSGスタジアムでのリマッチ。
春雨みたいに柔軟なマローニーちゃんは、ギャングに脅され仕方なくカルネラに花を持たせた。


 
結局アメリカに渡った1930年の一年間の戦績は26戦、25(23KO )1敗と多数のEX


この年の暮れにはスペイン、イングランド、スエーデン、デンマークなどを巡業し、ここでもギャング達は汚れた金を荒稼ぎした。

当然その金はカルネラの手元にはたいして残らなかった。

そしてまもなく、そんな金とは比べ物にならない大切なものを、失うことになる・・・



    (⑧へ続く)

動くアルプス⑧

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             プリモ・カルネラとレオン・セイ・・・  素敵な写真だ。



「永遠のマネージャー」


 


カルネラがボクシングの世界チャンプになる前に、カルネラが愛したマネージャー「レオン・セイ」はマディンの手下「ビル・ダフィ」によって解雇されたという。


カルネラに影響力があるこの小さなフランス人は、自分が欧州で仕組んだ試合は棚に上げ、ギャング達の大男増強の本質的な部分を我慢することが出来なかった。


実際セイはカルネラから金を搾取したが、ディフェンスを教えようと試み、その大男が少しでも身体的苦痛から免れられるように最善の努力をしてきた。


セイはギャング達から追放された後、はした金のためにコラムの連載を始め、かつての試合の中身を曝露した。


 「アメリカに来てから対戦相手が銃やメリケンサックで脅されなかった試合がほんの少しだけあったが、そのときにカルネラは負けたんだ。」


 
セイがそばにいたから、フリークという人生修業をなんとか我慢することが出来ていた。
しかしこの最愛の飼い主を失ったことで、巨人は気が狂いそうになった。


「レオンはアメリカでのたった一人の友達だ。いつも正しいことばかりしてはいなかったけれどね。彼は僕のお金を扱うのにむちゃをしたし愚かだった、それでも彼だけが僕の本当の友達だった・・・」


カリフォルニアで、セイはカルネラの現金の束をとり、それを不動産につぎ込んだ。
頼まれてもないのにカルネラへ家を2軒買い与え、オクラホマでは糞みたいな油田開発の儲け話に、石油を掘るどころか現金を地中に埋めた。


「当時レオンが何をしていたのか、僕にはわからなかった。銀行は、レオンが僕のために買った家は、もはや自分のものでなくなったと通知してきた。僕にたくさんのものを買ってくれたが全て結果は良くなかったな・・・。」


カルネラはこう続けた。


「しかしこれはレオンがやつらにだまされてしまったのだと、僕は今でも信じている。」


 
当時セイは巨人を息子のように扱い、甘やかした。
英語が苦手で無口だったカルネラだが、セイにだけは子供のように良くしゃべった。
アメリカでの苦しく孤独な時間は、セイと一緒だから堪えられた。


巨大なこの競争馬がハイエナのような男達によって取りあげられてしまうと、セイは涙もろく、感傷的になった。


カルネラはこの小さなフランス人マネージャーを偶像化していた。


一人で夜に映画に出かけるなら、何時頃に戻るからと走り書きのメモを置いて行った。
映画を楽しんだカルネラは急いでホテルに戻り、そこで見たものについて夢中になってセイに話した。


 レオン・セイがかやの外におかれた直後、不幸な巨人は悲しみのあまりぼうっとしていた。
そんな頃、カルネラはインタビューで記者に尋ねられた。


 
「ボクシングマネージャーはファイターをどう扱うべきだと思う?」


 
その頃には、カルネラは自身が信じこませられたほどには無敵でないことに気づきだしていた。
そしてギャング達から外されたレオン・セイについてこう語った。



「レオンはゆっくりと確実に行く人なのさ。そして遠くまで旅をしたい人は、馬を優しく扱うのさ。」


 
カルネラにとっての永遠のマネージャーは、冷血な飼い主であるギャング達ではなく、彼らに解雇された温かいセイであった。


 


1931年、大きなペテン師」

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1931年はアメリカで109勝(7KO1敗の戦績。


この1敗は1015日エディ・シャーキー戦で喫したものだ(結果は15R判定負け)。


2年後に世界戦で挑む未来の「世界」王者エディ・シャーキー。


後にもう一度戦うことになる2人の初戦はNYブルックリンで行われた。


 
「この1敗・・・」

ただの負けではなかった。
それは海の底に沈んでいくように苦しく、なんと堪えがたいものであったろう。


ニューヨークでのこの試合を見たものは、シャーキーの強打の下に崩れていくカルネラの痛そうだけど不思議そうな表情を忘れることはできないという。


その数秒後、片膝をついて183cmの相手を見上げる巨人の顔におびえの色が現れた。


何度も言うがカルネラは過去のフィルムを見る限り、我々なんぞより何万倍も勇敢な男である。


 あの晩、彼をおびえさせたのはシャーキーなんかではなかった。


本当の恐怖とは肉体的な苦しみなんぞではなく、自我というものが崩壊する瞬間にやってくる。


その日、カルネラは自分がパンチもディフェンスもない、チンピラの手の中にいる大きなペテン師にすぎないとリングで悟ってしまったのだ。


カルネラは今までだまされていたことを完全に理解した。
自分がパリでの初戦から信じ込ませられたワンパンチキラーではなかったということを・・・


これはおそろしく、屈辱的で容赦のない事実だった。それはこの日シャーキーがカルネラに与えた打撃よりもずっと厳しいものだった


 
「ボクサーを辞めたくなったがもう手遅れだった。ギャングは僕の喉元をつかんでいるようなもので、決してやめさせてくれなかった。」


「僕にはアドバイスをしてくれるような人は誰もいなかったし、なにより話し相手さえいなかった。レオンが去ったあと、彼らは僕が練習しようがしまいがお構いなし、すべての人はお金のために僕と関わっていたし、僕はそれを知っていたよ。レオンがいなくなってから僕は本当のひとりぼっちになったんだ。」


 


カルネラは存在自体が八百長とされていたが、そのキャリアの全てがそうだったわけでない。その証拠といってはあれだが、カルネラは王者になるまで、さらにいくつかの負けを重ねることになる。


 


1932年は26戦(20KO)2敗を記録した。


この年は前年11月からこの年の5月末までヨーロッパに里帰り巡業をしている。


ミラノで行われたHans Schoenrath戦には2万の大観衆が集まり、カルネラの故郷の村からも多くの応援団がやってきた。3TKO勝ちのおらが村のヒーローに、ミラノまでやってきた石工たちは大興奮。
ギャング達の興行は大成功に終わった。


 


里帰り巡業千秋楽は530日のロンドンホワイトシティスタジアム。
この千秋楽の相手は当時英連邦ヘビー級王者だった黒人強豪ラリー・ゲインズだ。

イタリアの巨人を見るためになんと7万人の大観衆が集り、それは英国での最多観客動員数を達成したという。
この試合、カルネラは91㎏のカナダ黒人に10回をアウトボックスされ判定を落としてしまう。どうもこのうすらデカいのは使えない。

その後ギャングの指令で米国に戻った816日のニュージャージー州ニューアーク。
カルネラは当地に住む弟が応援する前で、92㎏のStanley Poreda相手に最悪の試合内容で判定負け。この判定には議論の余地があると言われるが、それを差し引いても、やはりこのうすらデカいのは使えない。

しかしもう少し、もう少しだけ待ってくれ!

この山は大噴火することになる・・・・・


(動くアルプス⑨へ続く)




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        後にラリー・ゲインズとはプロレスのリングで雪辱!
 
「※ラリー・ゲインズは1946年あたりからカルネラ、マックス・ベアと共にプロレスのリングで働いた。写真は51年ロンドンで行われた2人のレスリングマッチ。この後、黒人は巨人の猛攻を受けリングから担架で運ばれた。」



動くアルプス⑨

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プリモ・カルネラ山は確かに大噴火するはずだ。
しかしこの話は1回休憩。
本日はカルネラがボクシングキャリアで対峙した大男たちを見てみよう。


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      1933年、アトランタ。   巨大なカンガルーのジョージョーと!

MSGの悪趣味」

 前回のカルネラがペテンを悟らされたエディ・シャーキー戦の約一か月後。

いまいち使えないこのうすらデカいのと、別のうすらデカいのをぶつければどうなるのだろうか?
教養のない下品な男達の考えそうなことだ。
さらにこんな品のない対決が当時からニューヨークっ子は大好きだ。


1931年11月27日、MSG。
相手は207cm102㎏のアルゼンチンうすら「ビクトリオ・カンポロ」。



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                 207㎝、ビクトリオ・カンポロと
                  

イタリアうすら対アルゼンチンうすら・・・・
うすら対決の結末は2ラウンドでアルゼンチンうすらがリングに長々とのびた。
アルゼンチンギガントを陰でマネージメントしていたのはあのジェス・マクマホンである。(ビンスジュニアの祖父)

「※その3年後の1934121日、このアルゼンチン人とはブエノスアイレスで再び相見えている。これはカルネラが世界タイトルを失った復帰戦だった。(判定勝ち)」


さらにNYでのうすら対決は止まらない。
19321118日、MSG204cmのポルトガルの巨人「ホセ・サンタ」戦


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                      カルネラ対ホセ・サンタ(左)

23ラウンド、イタリアうすらは、このポルトガルうすらをマットに転がす。
そして6ラウンド、レフェリーはついにそのウスノロな殺戮を止めた。



さすがにニューヨーカーもそろそろ飽きたのではないか?

いやそんなことはない。
1935年3月15日、キャリアも晩年に近づいたカルネラはまたしてもNYの皆さんのご希望にお応えしてうすらデカ対決を行うこととなる。

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               カルネラ対Ray Impellittiere(左)


相手は202cm117㎏の超高層ビル「Ray Impellittiere」という3流アメリカうすらだ。
まあカルネラ以上に鈍重なウスノロ白人では勝負になるはずもなく、9TKOで決着した。
↑ひどい試合だw



奇形こそが金になる。これはボクシングでもプロレスでも共通項。


味をしめた悪趣味な魔物たちが最後にプロデュースしようと目論んだ対決がこの奇形ボクサーとの戦いである。

 

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                       大巨人 ジョージ・ミツ
       

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      「もし動くアルプスとこの大巨人が戦わば?」
  

カルネラ戦を煽る記事だ。


1935年、ミツは突如ルーマニアマットに現れたなんと224cmの大巨人。
このデビュー年にはルーマニアとパリで計6戦を戦った。


ルーマニア巨人はカルネラの相手候補としてギャング達に注目された。
しかしこの1914年生まれの巨人症ボクサーは、ギャング達の目論み空しく、翌年に22歳で早逝する。
結局ミツの生涯成績はその35年に戦った6戦のみだった。。
211分け2ノーコンテスト)


風でふらつきそうなその肉体を見る限り、実現したとしても元世界王者カルネラの相手には荷が重かったであろう。

「※ミツの4戦目はカルネラの股間を粉砕した黒人強豪George Godfreyに、あっさり4ラウンドKO負けを喫している。」


「おいおい、ミツなんてこの私に比べたら小人だよ。」


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上の写真でのカルネラの対戦相手は224㎝のジョージ・ミツより明らかに大物だ。
彼は疑う余地のない医学的な記録がある中で、最も身長の高い人間「ロバート・ワドロー」。


現在でもギネスに残る最終的な身長は「272 cm」。
人類史上前例のないものであった。

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               晩年のワドロー

ミツと同じく22歳で死亡。
納棺時にはさらにそれから2センチ伸び、その棺桶は12人がかりで担がれたという。

残念ながら彼はボクサーでない。
ワドローは様々な見世物巡業で生活し、とても温厚な性格で誰からも愛された。


しかし異常な身長を疑った野次馬に何度もコツコツと脛を小突かれて、一度だけ大声で怒鳴ったことがあるという。
リングで戦うにはこの世界一の巨人はちょっと優しすぎた。


カルネラと撮った写真の頃はワドローの身長はどのくらいだったのであろうか?
彼の年齢ごとの身長の推移は今でも歴史に残っている。
カルネラと対峙する写真のワドローは若く、もしこれが35年頃に撮られたものとしてワドローはまだ17歳・・・
この写真での身長はまだ248cmあたりであったと思われる。


 


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          御伽噺のようだ。


次回は動くアルプスが大噴火するはずだ


(動くアルプス10に続く)




 


動くアルプス⑩

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                             これがプリモカルネラの殺人だ



「動くアルプス大噴火」


並みのボクサーに毛の生えた程度の実力のカルネラに、大きな試練が舞い込む。
それはカルネラにとって一生忘れることのできない日となった。


1933210MSG、「カルネラ対アーニー・シャーフ戦」。 


八百長で悪名を轟かせていたカルネラの評判は一気にこの試合で急上昇。
カルネラは第13ラウンド、一流の実力者であるこのシャーフを昇天させた。


「フィニッシュは巨人の槍のようなジャブ一閃!」


崩れ落ちたシャーフ・・・

立ち上がろうと片手をロープにかけ頭だけ必死に起こす。


しかし数秒後、マットから唯一離れた頭部は仕方なくゴトンと落ちた。

その瞬間、意識も諦めたようにそこから消えた。

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数日後、脳のダメージでシャーフは天に昇った。



なんにせよこれはアルプス噴火の予兆であった。


実力者シャーフの死は、巨人を鎖で飼っていた男たちにとって、彼にヘビー級タイトル戦を行わせることができる材料にすぎなかった。

まさにギャング達の欲していたギミックで、彼らは口々にカルネラの残虐性、そして強烈なパンチがシャーフの終焉の責任だろうと宣伝した。


 
「僕のせいじゃない。僕は泣きそうでとても気分が悪くなった。あれは僕のせいじゃないと皆に言いたかった・・・・。」


こんな家畜の意見なんぞはどうでもよい。
ギャング達はこの悲劇的事故を利用し、彼らの少年を再び強力な男にしようと企んだ。


 
そしてついにギャングはカルネラを世界王者「ジャック・シャーキー」と戦わせる契約を結んだ。
腐敗しきったボクシングコミッションは様々なペテンに目を瞑り、その試合の開催を許可した。


 


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1933629日、NYロングアイランドのマジソンスクエアーガーデンボウル。
ギャングたちが待ち望んでいたこの日がやってきた。


ボクシング世界ヘビー級選手権「ジャック・シャーキー対プリモ・カルネラ」


これまで80746敗、26歳のイタリア巨人が初の世界戦に挑む!

ボクシングコミッションは何も見えないふりをして、その試合の開催を許可した。
それがまがい物だとか詐欺だとかいう人はほとんどいなかったが、関係者のほとんどがそれを感じていたし、そうだとわかっていた。

国で最も名の知れた専門誌であるリング誌の「ナット・フライシャー」はカルネラがどうやって勝つのか理解しがたいと言明した。

しかし当時もっとも権威があったこのフライシャーのリング誌で、カルネラは当然のようにランキングされていた。


 

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                 ※前の年、カルネラはこのシャーキーにコテンパンにのされた。
        大きなペテン師と悟らされたあの一戦だ。
        

一万の観衆が見守る第6ラウンド、ドタドタしたフットワークの巨人が放った右アッパーが王者の顎を突き上げる。


「アルプスが大噴火!」





吹き飛んだ王者はカウントが10を数えても、全く立つ気配はない。


実はアルプス山脈に火山というものはほとんどないと言われている。


決して噴火するはずのないアルプス・・・・

この日確かに大噴火したのである。

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王者シャーキーと共に怪しげな試合に関わっていると評判だったマネージャー「ジョニー・バックリー」。
彼は自分のチャンプがKOされた瞬間、大げさなゼスチャーをしながらカルネラのコーナーに駆け寄った。

太ったバックリーは怒った顔を作りながらレフェリーにこう要求した。


「このパンチはおかしい。カルネラのグラブを調べろ。鋼鉄を仕込んでいるに違いない!」


 
こんな道化芝居が繰り広げられている間、カルネラはコーナーで立っていた。


ギャング、そしてギャンブラーにとっては甘い一夜であったに違いない。


オッズは54でシャーキーだった。


その夜、ギャング達はぼろもうけで、カルネラはアメリカに渡ってからこの時までに、総計でざっと200万ドル以上の彼らへの分け前を稼いでいた。


しかしカルネラがこの世界戦でもらった分け前は、いろいろな経費を引かれ、なんとたったの360ドルだった。


 
後の世になってギャングを恐れる時代でなくなっても、シャーキーは決してこの試合は八百長でなかったと否定した。


リング誌のナットフライシャー主筆は後にこう言った。


「あの日シャーキーはカルネラをノックアウトすべきだった。カルネラはあの日、見えないパンチを使ったんだ。しかし彼は組織によって作られただけで責任はない。カルネラはナイスガイだったが組織にファイターにしてもらえなかっただけだ。」


 
あの時代、ボクシング業界に関与する人々のペンは銃や金に弱かった。


しかし八百長かどうかはともかく、見えないパンチというのは言いすぎだ。
我々のように昭和のプロレスを見てきた者たちならカルネラの悲哀のこもった素敵なパンチが絶対にみえるはずだ。

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なんにしても・・・・・      


おめでとうカルネラ! 


(動くアルプス⑪に続く)


「※表向きではあるがこの業界が浄化されたように見えるのは60年代になってからだ。
当時ジョン・F・ケネディが大統領になり、弟のロバート・ケネディが司法長官となった。
ロバートは組織悪の一掃をめざしギャングスター「フランキー・カルボ」と手下の「ブリンキー・パレルモ」へボクシングに絡む恐喝でとても重い刑を与えた。
しかしその獄中からでさえ、その小柄なギャング達は明らかに彼らより大きい熊のような黒人を操った
そう、その黒人は後にカシアス・クレイに敗れ王座陥落するソニー・リストンである。」



動くアルプス⑪

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                                 顔を洗ってみたが夢じゃないみたい。チャンピオンだ。


「ファシストの広告塔」     


 
シャーキーから王座を奪った世界戦から1ヶ月後、360ドルの手取りに当てが外れ途方にくれた巨人は、なんと破産訴訟を起こした。
同時にカルネラは指輪と旅行に連れて行ってくれるという約束を破られたウエイトレスに、約束不履行で訴えられ法廷に召喚されてもいたという。


まあ図体はともかくあのタイツの中のアルプスだけは見かけ倒しではなかったようだ。


8月にはアメリカでノンタイトル戦1つと5個のEX
翌月にも1EXを重ねるが、奴隷巨人の手元には大した金が残らなかった。カルネラは2・3か月の間、知恵を蓄えようとイタリアに逃げこんだ。


「祖国の英雄、世界王者カルネラが凱旋!」

これにはイタリアが大噴火だ。


ムッソリーニはイタリアファシスト党の制服である黒い大きなシャツを着てチャンピオンカルネラを迎えた。
独裁者は顎を軽く突き出すと、軍服を着せたカルネラの胸をどんと叩きファシストの敬礼をさせた。


 

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               ムッソリーニ達と記念撮影。    



ローマではファシストたちが、巨人をまるでいにしえの戦争から戻ってきた英雄のように宣伝した。
19331022日にローマで組まれた世界王者カルネラの初防衛戦。手ごろな相手としてパウリノ・ウズクダンというくたびれた老兵が選ばれた。


祖国の英雄カルネラを一目観ようと集まった大観衆は、15ラウンドの間、睡魔と闘いながらも巨人の不器用な強打を楽しんだ。


※「この178cmの小柄なスペイン人実力者とは3年前のバルセロナで75000人(スペインでは史上最高の動員数)の観客を集め戦っている。このノンタイトル戦はスプリットデシジョンでかろうじて勝利した。この世界が異形の者を欲していたことが良くわかる。」


 


当然ながら愚鈍なカルネラは政治のことがよく分かっていなかった。


この大きな男は飼い主が変わっても常に鞭を持った誰かの命令に従う家畜であった。


しかし一度だけムッソリーニの言うことに従わなかったことがあるという。


あまり知られていないことだが、当時カルネラは自動車レースに熱狂していた。


大きな体を小さいレーシングカーに詰め込み、靴のサイズに困り続けた大きな足で器用にアクセルを踏み込んだ。
ファシズムの巨大な広告塔にムッソリーニはレースを禁じた.
しかしカルネラはこっそりと、年に一度の100マイル、イタリアオートレースに参加した。
アルファロメオ社がその有名な貧乏巨人に車を用意した。


カルネラは自力でこのレース3位を勝ち取った。


後にカルネラはムッソリーニのことを思い出し、笑いながらこう言ったという。


「そのことがボスの耳に入ったとき、彼は僕をローマに呼んで、地獄を見せたよ。」


アメリカでカルネラを扱っていた飼い主は、独裁政権よりもう少しは良心的で残忍ではなかったと言われている。
しかしこれはアメリカ人が良くやるように後に捏造したことだろう。


当時ムッソリーニはモータースポーツを愛好し支援した。
彼の愛車は、当時のイタリアにおける代表的な高級車アルファ・ロメオ・スパイダー・コルサであった。

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                  ファシストの兵士たちと。
 


王者カルネラがイタリアからアメリカに帰国したとき、イタリアからルイジ・ソレイシという小さな銀行家をマネージャーとして一緒に連れていた。


カルネラはこれで自分の境遇が変わるだろうととても興奮していたという。


確かにソレイシはとても有能な男だった。


有能な男だけにカルネラの利益となるように働くよりも、ギャングから分け前をもらう方が儲かると気づき、あっという間にそちら側に寝返った。


ソレイシは彼がカルネラを保護していると信じるように上手く騙した。


カルネラはそんなことにはずっと気づかなかったのだが、ソレイシのやり口は腐ったギャング達よりも数倍冷酷な仕打ちであった。

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                 右の口髭がこずるいソレイシ
 


「誇り」

アメリカに戻った王者カルネラの2度目の防衛戦がマイアミのマジソンスクエア―ガーデンスタジアムで行われた。
相手のトミー・ローランはライトヘビー級で2度世界王者に君臨した技巧派だ。

まだ32歳のローランだが、この挑戦時にはすでにくたびれたボクサーになっていた。
それまで15年間、100戦を戦っていて、そのほとんどを最終ラウンドまで働いてきた。(※最終レコード128922410分け。そのうちKO勝利はたった15個。)


彼は有名なパウダーパフパンチャー(女が白粉を塗るさまにかけた弱いパンチ)で、さらに評判の大部分はライトヘビー級で作られたものである。


実際この試合、カルネラはローランより40㎏くらい重かった。

試合前カルネラはこういった。


「僕はお金とかそんなものには注意を払わない。」

絶体嘘だw

「ボクシングに夢中なんだ。他のものは全然気にならない!」


これも嘘だw
先日ウエイトレスに婚約不履行で訴えられたばかりなのに・・・

この大男は、タイツの中のはちきれんばかりのアルプスを押さこみ、殊勝な顔でこのような声明を発表したという。



鋭い目で巨人の周りをうろついていた詐欺師達は、マイアミのナイトクラブで膨大な量の100ドル札を浪費し、絶頂期のカポネよろしく過ごしていた。


彼らはカルネラのトレーニングやコンディションにはまったく注意を払わず、彼を裏路地の粗末な住まいに置き、そこに顔を出すことは滅多になかった。


12週間、カルネラはキャンプで懸命にトレーニングに励んだが、おそろしさ、さみしさ、そして絶望感でいっぱいになりすぐに自暴自棄に陥った。

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                こんなことや

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           こんなことや

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         こんなこともしたのだが・・・  


結果、このあばずれ巨人はシャーフの命を奪ったときよりも20ポンド以上も肥大し、最悪のコンディションで2度目の防衛戦に臨んだ。
(※122.5㎏で世界戦最高重量)


 
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カルネラはこのマイアミでの15ラウンド間、トミー・ローランにもたれかかり続けた。


巨人はボクサーとして最初よりマシになっていたが、この試合の勝利は、ローランが彼にパンチを当てられなかったという理由で得たものにすぎなかった。


 
しかしカルネラはこのローランに勝利したという判定を死ぬまで誇りに思っていた。


「不器用だが本当に美しい巨人のダンス!」


これはカルネラが自分で信頼できると確信していた、数少ない試合のうちの一つだったから・・・



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      巨人のダンス、女相手だと軽快だ。


 


この時期には腐ったハイエナたちに、ついに法と秩序が割り込むこととなった。


ルーズベルト政権はもぐり酒場を社会の敵として追跡した。
この頃カルネラのギャングマネ「ビル・ダフィ」も刑務所への旅行としゃれこんでいた。


そんな時期、強打のボクサー「マックス・ベア」はタイトルへの挑戦を求めていた。


大衆はお粗末なカルネラには飽きていたし、この不幸な巨人はひどくお金が必要だった。


カルネラは危険なパンチャー、ベアと相まみえることに同意した。



        (動くアルプス⑫に続く)

動くアルプス⑫

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                               祖国の英雄




「どっちもへぼ」


 


「カルネラ対マックス・ベア」(1934614日)


 
この試合の宣伝のために王者カルネラと挑戦者ベアは「The Prizefighter and the Lady」(ボクサーとレディ)という映画に出演した。



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        邦題「世界拳闘王」、ヒロインのマーナ・ロイと。

このヒットした映画ではハンサムな主人公ベアに、カルネラが敗れる筋書きだったがカルネラは大むくれ・・・
さすがに現役王者が負けるのはまずいと、台本はギャングによって書き換えられた。
まあ2人が映画のリング上で劇をすることの方がもっとまずいような気もするが・・・。




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                            映画のために床屋で髭剃り・・・                  




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                髪もとかしてメイクもばっちり!



プレイボーイで名高いベアはこの撮影中こう思った。

「こいつは動きがノロマなだけでなく、頭の中までノロマだな。」

 撮影中、ベアはカルネラを小馬鹿にし、櫛で撫でつけられたこの世界チャンプの髪をぐちゃぐちゃにしてからかった。

カルネラはギャングの元締めにそれを言いつけたといわれている。



 ここに失礼な記事がある。


「この間、ベルトを巻いたカルネラがアメリカの小さな町をツアーしたとき、スポーツ記者はこのフレンドリーなイタリアの巨人を愚弄して、愚かなのは大きいからだと興奮して大騒ぎ。彼のアメリカ人記者に対する不慣れと不自由な英語は、彼が知恵遅れであるという証拠にされた。」

これがカルネラに対するアメリカ人の評価だったのだ・・・



映画では引き分けだったが現実の試合ではカルネラは11度も転がされタイトルを失う。


ラフで力任せのベアはよたよたしたカルネラを倒すと、バランスを崩し王者に乗っかって一緒に転んだ。


観客は大喜びだった。

しかしそれは有識者達の失笑を買ったという。



試合後の記者会見、勝者ベアは戦前に自分のことをこき下ろしてきた記者たちに向い、口から泡を飛ばしながらからこう言った。


 
「おい貴様ら見たか!誰がへたくそだって?」


 
ちょっと困った顔の記者たちは答えた。


 
「あんただよチャンプ。でもカルネラはもっとヘボだ。」


 
このマイアミのMSGボウルでの戦いは残酷でとても哀れなものだった。


マックス・ベアは元サーカスの奇形でストロングマンだった無防備でよろよろした男を、血にぬられた怪物にした。



 ベアは第1ラウンドで3回、カルネラをノックダウンした。


それは非常にたちの悪いパンチだったが、勇敢な巨人は起き上がり試合を続けた。


10ラウンドの終わり、すべてのラウンドでのノックダウンが計11度を数えた。

闘牛のようだった。


グロテスクな顔、傷だらけで血まみれの牛は、確かにまだ立っていた。


ついにレフェリーは11ラウンドにその闘牛をストップし、牛以外のすべての人はほっとした。


しかしその牛が何かを感じるには、容赦ない打撃によって麻痺させられ過ぎていた。


ベアのマネージャーは試合後にこう言ったという。

「私はカルネラが好きではなかった。奴はただのうすらでかく馬鹿な浮浪者で、ボクサーと呼ぶにはおこがましい男だと思っていた。しかし、神にかけて、あの晩わたしはあの大きなめくら牛を哀れに思い、そして愛おしく思った。なぜなら私はいままであんなガッツのあるファイターを見た事がなかったから・・・・」



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                 お見舞いに来たベアと 


後にプロレスのリングで2人は友人となったのであるが、ベアはレスラーでなくレフェリーとしてプロレスリングに参加した。

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                これはレスラー転向後の写真






馬にされたり牛にされたりカルネラも大変だが、ついに今度は植物にされてしまう。


無残に沈んだ巨人の権利はギャングから放棄されたのか?いやされなかった。


 
「年貢と胡麻は絞れば絞るほど・・・」


 
カルネラはこの胡麻のようなもんであった。


この大きな奇形が単なる普通の男にぼこぼこと殴られることを見ることに、お金を払うサディスティックなファンがまだいることをギャング達は知っていた。


 
ソレイシとギャングはカルネラのほころびにツギをあてると、国境の南にいる用心深くない人々からペソを巻き上げようと、南米に連れて行ったのである。


6か月の間、この胡麻ちゃんはアルゼンチン、ウルグアイそしてブラジルのリングでさらに絞られ、とりまきに稼ぎを与えた。


 
そんな頃、ギャングマネージャー「ビル・ダフィー」が刑務所から釈放された。

彼の最初にしたことの一つは、この胡麻ちゃんを南米から連れ戻すことだった。

このギャングは最高の稼ぎになる、巨人がひどく殴られる喧嘩のような試合を手配していた・・・・・


  (動くアルプス⑬に続く)


動くアルプス⑬

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                                  自分が狙われているとも知らずに・・・・



「殴られる男」



1935年春、大勢の記者達の前にビル・ダフィーが得意満面の顔で現れた。


 「新進気鋭の黒人ジョールイスと元チャンプカルネラの一戦がこの6月に行われる!」

※のちにこのルイスは歴史上最高レベルの偉大な世界王者に


 
すでにタイトルを失っていたカルネラはそれでも名が売れていて、未だ商品価値が高かった。
そしてこの試合には人種暴動も危惧された。


「少しだけ白人の血が流れている20歳のこの黒人は、イタリア軍兵士カルネラと戦う。NYのイタリア人と黒人の間にはムッソリーニの黒人国家エチオピアへの進行問題が重くのしかかる。」


 
当然ながら人種差別主義である当時の白人系新聞のほとんどはルイスの肌の色が気になった。ある新聞はこう書いた。


「不吉で人間とは思えない何かが、図体の大きい男を殴り倒すため、アフリカのジャングルを抜け出してきた。」



湖での撮影では白人記者がスイカを持ってきた。
黒人といえばスイカだ。そこには白人記者の悪意が溢れていた。


 「ジョー・いいのを撮ろうぜ」


ルイスは悪意を感じそれを拒んだ。


「どうしてなんだよ、なあジョー、楽しいやつを撮ろうぜ。」


「ぼ・・・ぼくはスイカが嫌いなんだ。」

ルイス陣営はルイスがジャック・ジョンソンにならぬように細心の注意を払っていた。

この時代、奇形もファシストも黒んぼも、その時代を牛耳るアメリカという正義とやらにかかっては皆一括りだ。
現在でもそうだがこんなものはその時の力を持つものによって決められる。


 
数少ない黒人独立国家だったエチオピアは1936年から五年間イタリアの植民地支配を受けることになる。
この侵攻前に行われた巨大なイタリア人対黒人の代理戦争・・・・



625日、NYブルックリン、ヤンキースタジアム。」

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この白黒対決、世界戦どころでない6万人の観客と400人以上の報道関係者がスタジアムにつめかけた。


 「試合の最初の数秒、ジョーのジョルトの一つがカルネラの口を完全に打ち抜いた。本当に死んでしまいそうに、くるラウンドもくるラウンドも相手を払いのける血まみれの巨人の耳に向かって、ギャング達が怒声をあびせる光景を、カルネラの背後にある物語を知っていて試合を見た者の誰が忘れられようか・・・」


 
6ラウンド232秒、このぞっとするような出来事はやっと終わる。


すべてを断ち切るような黒人の左フックにより大木は雷に打たれたように崩落した。


血まみれの勇敢な巨人は両足で大地をはみ、意地だけで立ち上がる。


しかしその数秒後、止まらない野生の圧力に、巨人は諦めたように横を向いた・・・・。


 
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カルネラはこの試合の5ラウンド、その褐色の爆撃機の強打でさらに口の中の傷を深くしていた。


恐怖に目を見開きながらも、口から血の泡を飛ばし勇ましく最強黒人にこう言い放った。


「くそ、俺がお見舞いしてやるはずだったのに。」

確かにカルネラのボクサーとしての評価は高くはない。
だがこれだけは言わせてもらおう。

本当に勇敢な進撃する巨人だったのだ。


 


遠い遠い昔、ヨーロッパ大陸とアフリカ大陸が衝突し、地層が盛り上がってアルプス山脈ができたという。


そしてこの19356月、ヨーロッパの奇形とアフリカ黒人が衝突し、そのアルプス山脈は完全に崩落した。


帝国主義とやらが崩壊するずいぶん前に、ボクシングの歴史上でカルネラの役目は完全に終わったのである。


 


1956年に封切られたハンフリー・ボガード主演映画「The Harder They Fall」。


日本語に訳すと「相手が大きくなるほど彼らは激しくキャンバスに落ちる」だそうだ。


これは後に世界王者となった先の黒人ジョールイスが、大きな挑戦者を迎えたときに言ったセリフの引用である。


ボガードはボクシング記者役で、ギャングに操られた悲しき大きな王者の末路を憐れむストーリー・・・・

この映画の邦題は「殴られる男」。
カルネラをモデルに作られたとして有名だ。

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                     偽カルネラ(映画殴られる男より)

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           偽ジョールイスっぽいが本物。老いてから少しだけレスラーに。

         

ルイス戦以後の山はくすぶることさえなかった。
1935年はルイス戦の後、年の終わりに3勝を重ね、この年は6勝(5KO1敗。
もしリングにほとほとうんざりしている男がいたとしたら、それはルイス戦大失敗後のプリモ・カルネラだった。

しかし彼を綱で引っ張っていたハイエナたちは、「もう充分だ。」なんていう人道的な解答をするはずもない。

胡麻の絞りかすのようなカルネラの名前はまだカモを引っ張れたのだ。




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 そして1936年、レロイ・ヘインズという三流の黒人ボクサーがようやくそのウスノロ牛にとどめの一撃を浴びせた。


彼はフィラデルフィアにおいて3ラウンドでカルネラをノックアウトした。


その試合はかなりの人出だったので、たった11日後にブルックリンでの再戦が行われた。


この黒い屠殺人は9ラウンドの間、カルネラをハンマーで殴るように打ち、切りさき、ぶったたき、激しくパンチを出した。


牛巨人の両足はふらふらになってきかず、もはやぶん殴りの刑を受けるために立ち上がる事さえできなかった。


 
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           もうやめてあげてくれ!(ヘインズ戦)

カルネラはリングから病院へ直行した。


そして骨まで牛をしゃぶりつくしたハイエナたちは、ついに彼を解放したのだった。


 「僕は病院のベッドに5カ月間横たわっていた。左半身はすべて麻痺していた。本当に痛かった。この間ずっと、誰一人として僕のお見舞いにはこなかった。僕は世界中に一人の友達もいなかった。」


 


病院から退院したとき、彼はまだ足を引きずっていた。 


引きずった足で桟橋にかけられた板をなんとか渡り、船でヨーロッパに戻った。

もう商品価値はなくなっていた。
パリに滞在し、アルバートドゥネグリオという02敗の聞いたこともない相手と対戦し、10ラウンド判定負けと交換に日銭を稼いだ。



そして1937年のクリスマスの1週間前、これはブタペストの雪の夜だった。



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                  雪かきするカルネラ

元世界ヘビー級チャンピオンのプリモ・カルネラは01敗のJoseph Zupanという無名のハンガリー人と戦った。
Zupanはプロレスラーであり、これに2ラウンドTKO勝ちした。

これがカルネラ最後の試合となった。

ニューヨークの新聞では寂しく2,3行だけそのことを報じていた。


(動くアルプス⑭に続く)







動くアルプス⑭

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           仕方ない・・・木こりにでもなるか

                                          


「そしてレスラーに」


 
19381月には腎臓摘出の手術をしたという。


プリモ・カルネラはただのプリモに戻り、生まれ故郷のセクアルス村に帰った。


両親はすでに亡くなってしまっていたが、小さな町の人々はこの巨人をものすごく愛し、ようやくプリモは安らかなときを過ごせた。


彼は自分の家を建て、質素に暮らし、農業に精を出した。


プリモは1939年、近くの町の郵便局で働いていた一人の女の子、ピーナと結婚した。


 それはそれは幸せで平和な毎日で、彼らは2人の子供を授かった。


一人はハンサムで繊細な面持ちのウンベルト、そして2年後に生まれたジョアンナ・マリアという女の子がプリモの大きな膝の間にちょこんと座った。


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少し脱線させていただく。

昭和の終わり、私は週刊ゴングのグラビアでプリモ・カルネラ三世という巨人の紹介記事を呼んだことを覚えている。
来日を期待したのだが、この筋骨隆々のカルネラに似たグリーンボーイは、私がプロレスを見ている間(昭和時代)に日本へやってくることはなかった。


206cmのカルネラ三世が、祖父以上に愚鈍なジャイアントヘイスタックとタッグを組んだ試合がネット上に残っている。

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                  プリモ・カルネラⅢ世


彼が本物の孫であったならうれしいのだが、これは所詮狂った私の願望なのであろうか?

※もちろん偽物、94年のドイツハノーバー遠征ではプリモ・カルネロというカリメロみたいなふざけたリンネームも名乗っている。WWFや他の地区にも別の名前で上がっているがまあどうでもいい。
(MakeFury、BigGuidoなど)


孫がいるなら息子もいるはずだ!

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        右のイゴール・ザ・グラントに注目!

マリオミラノ、ニコリボルコフとポーズをとっているのが後のカルネラ息子だ。
1994年にFMWに来た201㎝のプリモカルネラJrだ。(もちろん偽物)
コワルスキー門下だそうだ。
なんにしても偉大なカルネラの名は後世まで伝えられた。
※Giant Dabid、Jewish Giant(ユダヤ巨人)等のリングネームも。カリフォルニアの巡業中にスカウトされScott L. Schwartzという本名で俳優となった。その後レスラーをフェードアウト。


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さて本筋に戻ろう。


プリモの平和は長くは続かなかった


193991日に第二次世界大戦が勃発したためである。


カルネラは40年から42年までに少なくとも6本の映画に出演しているとされるが、この戦争の最後には生活が困窮した。

「アメリカ兵はとうとうセクアルス村にもやってきた。彼らは僕の手をとって握手をし、僕の家に滞在し、僕と写真をとり、過去の試合とアメリカについて話した。」


 戦争が終わったとき、プリモは一文無しだったが、もはや孤独でも絶望的な男でもなかった。


世の中というリングは幼少期から彼に打撃を与え続けたが、それでも生きるためにまだまっすぐに立っていた。


1945年、38歳のくたびれ巨人はもちろん金のためにイタリアでカムバック、そして2試合を早い回でKO勝ちしている。


11月の復帰3戦目にアマ上がりのイタリアヘビー級王者Luigi Musinaに床へ3度転がされた。(7ラウンドTKO負け)


そして翌年の3月と5月、この同じ相手とイタリアで2試合を行いどちらも判定負けを喫した。


カルネラは彼を苦しめ続けたカボチャのようなグローブを今度こそ本当に壁へ吊るした。
動くアルプスの生涯成績は8915 (71 KO 1 ND)であった。


 
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カルネラはすっきりした気分だった。


家族はそばにいてくれるし、イタリアの風は彼が巨大な子供だった頃より優しかった。


相変わらずないのは金だけだった。


そこになんとアメリカからのオファーがあったのだ。


彼は完全に忘れられていたわけではなかった。


カルネラはロサンゼルスのプロモーター、ハリー(ハロルド)ハリスの申込みを選んだ。


その分厚く巨大な手に握ったペンで、アメリカで働く気持ちがあること、そしてツアーの為の十分な資金を自分に送ってくれと手紙に書いた。


ハリスはマッチメーカーのベイブ・マッコイ、キャル・イートン、ジョニー・ドイルらの所有するオリンピックオーデトアムに電話した。

彼は電話口でマッコイをつかまえ興奮しこういった。


「プリモ・カルネラをつかまえたぞ。面白そうだろう!」


「最高だ! で、彼はどこにいるんだ?」 


「イタリアだよ、彼を連れて来て、スタートさせる資金を提供してもらえないかな。」


 
マッコイは興奮し仲間たちとこの巨人で金を生み出す計画を念入りに練った。
彼らはカルネラをボクシングとレスリングの試合でレフェリーとして使うことを決め契約し、ロサンゼルスへの渡航費用をプリモに送った。


194661日、かたわで壊れた男がアメリカに置き去りにされてから10年後、「動くアルプス」は再び海を渡りアメリカに帰ってきた。


すでにカルネラも40歳、しかしオリンピックオーデトリアムのマッチメーカーの見立てでは、思ったよりも力強く、そのコンディションもよく見えた。


そしてその老いた巨人をジムに連れて行ったのだが、驚くべきことに彼はふざけて、しかし巧みに、何人かのプロレスボーイを相手にプロレスをしてみせたのだ。


「一体全体どうなっているんだ。この男をレフェリーとして使う必要なんてないじゃないか。僕らが飼っている筋肉男達より、よっぽどいいレスリングをしているぞ。」


カルネラは彼をタイトル戦でひどく殴ったマックス・ベア、英国で7万人の大観衆の前で戦った黒人ラリー・ゲインズと共に、このプロレスリングという世界に足を踏み入れた。


アメリカ到着から約3カ月たった1946822日、カルネラはカリフォルニアのウィルミントンでプレデビュー戦を行った。


相手は巨大な体躯を誇る「Jules Strongbow
プロレスファンにはジュリアス・ストロンボーのほうが通りがいいだろう。

(※ジュールス・ストロンボー名義でキャリアのほとんど戦ったが、ロスでの一定期間とコロンバスではジュリアス名義で戦った。193㎝、130㎏)



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       ハーディ・クルスカンプに伏魔殿の巨大なパンチ。


ロスという伏魔殿を牛耳る伝説的なプロモーターとして歴史に残るこのレスラーは、当時ラフな嫌われ者として鳴らしていた。


カルネラは大きなアクションで巨大なパンチを振い、この大きな男を漫画のように吹き飛ばした。


 
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その2日後、多くのレポートでカルネラのデビュー戦とされるオリンピックオーデトリアムでのメインエベント「カルネラ対トミー・オトゥール」。


試合の夜、支配者であるマッコイとハリーは不安でいっぱいだった。
しかし巨大なカルネラだけはただ一人陽気で自信たっぷりの様相だったという。


カルネラはプロレスリングとは何たるかを知っていた。
そしてこの巨人は正しかった。


この日のチケットはソールドアウトとなり、リングの上でもカルネラはたくましいオトゥールに対して素晴らしい仕事をみせた。


群衆は彼をいたく気に入り、プリモ・カルネラは瞬く間にレスリングビジネスのトップに駆け上がっていくことになる。


北はハドソン湾地方から南はニューオリンズまで、東はニューヨークから西はカリフォルニアまで・・・・。


イタリアの巨人はプロレス界で、最も大あたりのプロレスラーとなったという。


一年間のプリモの試合の総計は100万ドルを超えていた。

フランスを空腹でさまよい、ただ生きる為だけにする仕事をさがしていた12歳の巨大なみすぼらしい少年が、公園のベンチでプロボクサーという言葉を聞いてから22年・・・

ついにイタリアの悲しき巨人は本当の居場所というものを見つけたのであろうか?



(おまけ)

※カルネラのプロレス時代の管理者としてはあのトーツ・モント、そしてモーリスティレの3つのデスマスクのうちの1つを得た世界一の怪力レスラー「ミロ・スタインボーン」も名を連ねる。


 

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         ヘンリー‘ミロ’スタインボーン(左端)がジムにイタリア巨人を連れてきた。
          これがカルネラレスラー転向後の写真なら1889年生まれ(1894年説も)の
          スタインボーンは57歳を超えていることになるが・・・


 

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人類初の550ポンドスクワットを成功させた世界一の怪力スタインボーン。
彼にかかれば800ポンドの小象でさえもこのとおり。
これは45歳頃の33年シカゴ万国博覧会での一幕のようだ。
彼は80歳になった時でさえ140kgのスクワットを見せたという。
 

   (動くアルプス⑮に続く)


動くアルプス⑮

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                                大衆はこの巨人を望んでいる。


「互いの世界への尊敬」


 
ボクシング界はプロレス得意のショーアップの技巧を参考にし、一方プロレスは金に窮した過去の偉人たちをそのリングに上げ観客を楽しませ続けた。


 「デンプシー、ルイス、シャーキー、ベア、ガレント、ウォルコット、ムーア・・・・」


これらそうそうたる面々がプロレスリングのリングに上がることに、それがレスラーであれレフェリーとしてであれ、集まった客は十分に楽しんだであろう。
この時代、相互の関係は持ちつ持たれつの部分があった。

奇形のカルネラはレスラーの対格をはるかに上回っていた。
元世界王者で名前もあり、表情もつくれ、それなりにプロレスラーの動きもできた。
プロモーターたちが群がって当然である。


 
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            アーチ・ムーア(左)もプロレスのリングで戦ったことで有名だ。

  


後年、偉大なペリカン顎の日本人が、最高レベルのボクシング世界チャンピオンを特殊な形でリングに引っ張り出す。
ボクサーをレスリングの舞台に上げるという最終形があの猪木対アリだ。
これを大衆は楽しめなかったのだから皮肉なものである。


 近年になっても有名ボクサーはプロレスのリングで引っ張りだこだ。

マイクタイソンはWWEになる前のWWFのマットで凄みをきかした。
変わった髪型で有名な元フェザー級王者の人気者ホルヘ・マロメロ・パエスが小遣い稼ぎでゲスト出演していたのも覚えている


しかし平成の日本ではアメリカのような元ボクサーの使い方をしなかった。

二流の元世界王者トレバー・バービックは高田ごときに脚を蹴られて醜態をさらした。
言っておくがこれがフェイクかリアルかということは全く問題でない。
ルー・テーズにそれを最強と絶賛させる手法のそこには、愛というものが全く感じられなかった。

終いにゃ偉大なロベルト・デュランがTシャツを着て船木のところへやってきたがこちらはまあ良い。
デュランレベルになればご愛嬌というものだろう。

※「この時代には元ライトヘビー級世界王者のマシューサードモハメッド、元クルーザー級世界王者ジェームス・ワーリングあたりも日本にやってきた。」

後にK-1や総合格闘技界がボクサー、そしてプロレスラーを使いこの手法を真似たが、日本のプロレスというジャンルの性質上、ダメージ的にはかなりのものであった。


そういえば平成3年、初期FMWに壊れたレオン・スピンクスがやってきた。
アリから王座を一度は奪ったことがあるこの老いたこの黒人ボクサー。
このパンチドランカーは、アリと戦ったことのある老いたペリカン相手にウンコのような闘いをさらしている。(昭和61年、石松がレフェリー)

当時FMWにスピンクスをブッキングしたインディアナポリスの生傷男は旧友であるザ・シークに日本でのマネージメントを一任した。

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漢であるザ・シークはこの貧困にあえぐおんぼろに対し「チャンプ」と呼ぶことを、FMWの若い外人レスラーに徹底したという。


そこには愛がたっぷりで、これこそがすべてを包み込むと言われる私たちの大好きだったプロレスというものであろう。

そしてカルネラ時代のプロレスには当然それがあった。
まあカルネラ程の魅力なら、愛なんぞなくともファンが放っておくはずがないのだが。


 
「巨人の食欲とサンタクロースの貪欲」

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なんにせよカルネラのレスラー転向は、そこに愛がある最も大成功の部類に入るものであった。


大都市の多くの観衆をのみこむホールであろうと、地方の埃っぽい納屋のような建物であろうと、プリモ・カルネラがリングへ向かい大股でのしのし歩いて行く様は老若男女を魅了した。


その巨大な赤と青のガウンが翻されると、巨大な体に観衆の目はくぎ付けになる。

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カルネラが向い合うしまりのない対戦相手とは対照的に、観客は巨人の美しいプロポーションに心打たれた。


摩天楼のような身長、筋肉質な肩と胸と脚、力強い両腕は、彼を見る群衆に身震いよりもむしろスリルを抱かせた。


 
カルネラがレスリングデビューして二年後の1948727日、NYで封切られた
Mighty Joe Young」。

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           映画ジョー・ヤング、尖った奇形の頭で板を割る天使

                       http://blogs.yahoo.co.jp/akashikatsura/31293601.html

映画の中のカルネラ(左)の40代前半の肉体・・・・
それは40歳の奇形「スゥエディッシュ・エンジェル」の老いた肉体と比べ、鑑賞に堪えうる良い体だ。
しかしその肉体が、若きボクシング時代のはちきれんばかりの体と比べれば明らかに老いているのは当然である。


されどこの巨大な男はあの家畜時代に比べ人間としての尊厳というものを手に入れていた。


リング上のライトに照らされたこの男の威厳は、当時の観客に確かに伝わり、その肉体は実際よりも大きく見えたという。


そこは幼き頃から苦しみ続けた異形がたどりついた、最後の楽園であったのかもしれない。


 
ターバンを巻いたインド人、髭の恐ろしいチロル人、黄金のギリシア人や山男・・・


悲しきイタリア巨人カルネラはこの風変わりな職業に滑らかに同化した。



「カルネラは素晴らしく忠実な人だ。」


東部で彼と契約していたアル・マイヤーは言った。


「彼はいつも試合を盛り上げてくれる。プロモーターを決して失望させない。ファンたちは彼が大好きだ。」



マイヤーは帳簿を開いて、プリモが書かれている箇所を指した。


ニューヨークの4つの出場で、カルネラの取り分は総額10万ドルとなった。モントリオールは3日間で64千ドル、クリーブランド、ロサンゼルス、そしてフィラデルフィアの各都市で18千ドルを集めた。デトロイトでは17千ドル、シカゴで16千ドル、マイアミで12千ドル、それはまだまだ続いた


4711月ニュージャージー州ニューアーク、‘2トン’トニーガレント戦。


ガレントはそのワイルドなパンチでジョールイスからダウンを奪ったこともある元人気ボクサーだ


このずんぐりむっくりの無頼漢はボクサー時代から葉巻を愛し、頭や肘、そして時折見せるバックブローでボクシングとやらを掻き回しファンから愛された。


巨大タコやカンガルー、熊と戦ったこともあるこの男は、イタリアの奇形とプロレスのリングで向かい合った。


 

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                カルネラ対ガレント第一戦                            




カルネラはもう少し小さい手だったら滑稽であったであろうあるパフォーマンスを行った。対戦相手より高くそびえ立っていたカルネラは、重いガレントを大きな掌でつまみあげ投げ捨てた。


そしてある時はダッキングし、そして客を見渡しながら大股で歩き、巨大な指を固く締めてそれを相手に叩き付けた。


カルネラはフォールへの綿密な儀式を文句なしの出来で行ったが、タフなガレントは負けずに反則でそれを凌いだ。



群衆は好き勝手に親しみのこもった野次を飛ばしたという。


「プリモ!気にするなよ。この1戦でお前が負けたら、来週のピッツバーグで勝てるさ!」



そのコンテストは当然のように引き分けに終わった。


群衆は拍手喝采、口笛を吹き、足をふみならし叫んでいたが、彼らの顔はみな笑っていて、とても楽しそうに見えたという。


元ボクサーである2人のフリークスがマット上を転がるこの「みもの」に、客は金を支払った分をきっちり楽しんだ。



プロレス界でカルネラとつながりがある男たちは、ボクシングの頃のギャング達とは異なる種類の人であった。


カルネラの個人マネージャーである大きく親切なあのトーツ・モント(アメリカ東部地区の大プロモーター)は穏やかなサンタクロースのような顔をしていた。


「私は1年以上の間、プリモと共に旅をしていたんだ。」



「あいつとうまくやっていけない男なんていうのは、頭がいかれちまってる男だけさ。プリモは正直者で、私はあいつのために良い仕事を与えてやりたかった。」



モントはマスコミに向けこんなことを言ったが、実際ボクシング時代のギャングに比べると明らかにマシで、カルネラには彼がサンタクロースに見えていた。


「私が1年前プリモを獲得したとき、まさか彼がこんなにうまくできるなんて夢にも思わなかったよ。彼は40歳だった。しかしこのプリモの場合、年齢はどうでもよかったようだし、レスラーとしてどんどんよくなっていくようだ。」



モントは巨人が小食であるという話をするのが好きだった。


「パーティーや夕食ではおそろしく時間がかかる。実際はほんの少ししか食べないプリモが、どこに行っても皿に山盛り盛られて、いつも気まずそうにしている姿といったら・・・・」
 


モントは大きな体を小刻みに揺らしクスクス笑った。


 
「プリモがあまり食べないものだから、もてなす側はいつだって動揺してしまう。皆はプリモがその料理を好きじゃないから食べないと思うのさ。彼が普通の人と同じくらい食べるのは朝食の時くらいだと教えても、それは冗談だろうと誰も信じてくれないよ。」


モントの巨大な競争馬はニタリと笑い相槌をうった。


「その通りさ、酒と女は大好きだけど僕はたくさん食べないな」


 

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        嘘つき・・・チキン一羽まるごとペロリ


当時トーツ・モントは巨人について夢を見ていた。


それはプリモ・カルネラをレスリングの世界ヘビー級チャンピオンにすることだ。


プロレスとボクシング、この二つの世界で最高峰にたどりついたものはいまだかつていない。

これはカルネラと国中を行ったり来たりのツアーをしている間、モントがずっと狙ってきたことだった。


 サンタクロースは言った。


「プロレスリングというビジネスは複雑に組み立てられている。そこには多くの州と多くの規則を前提として、世界チャンピオンを主張するたくさんの男がいる。私はプリモに最終的にはそのすべての男たちを破ってほしいと願っているのだ。」

さらに興奮してまくしたてた。


「したがってまずプリモは、チャンピオンと認定されているフランクセクストンを打ち破らなければならないだろう。またセントルイスのナショナルレスリングアソシエーション王者ルー・テーズも破らなければならない。ビルロンソン、トロントのホイッパーワトソン、ジムロンドス、オービルブラウン、ブロンコナグルスキー、それらの面々もマットに沈めなければならない。私の意見は、プリモがこれらの男たちを全て倒すことができるってことだ。」


 
モントは記者向けにまじめな顔を作り最後にこう言った。



「つまり私が言っているのは、プリモ・カルネラは次の世界ヘビー級チャンピオンになるってことさ。」


 
今思うとあの素晴らしいバディロジャースほどでないこの色物に、それを望むのはさすがに酷だ。
しかしモントがこの巨人を愛し、途方もない大金を得たことだけは真実だった。

(動くアルプス⑯に続く)

動くアルプス⑯

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                                    カルネラのサブミッション(ロンドンの試合)


「巨人の快進撃」



カルネラは468月のジュリアス・ストロンボーとのデビュー戦から破竹の快進撃を続ける。


1023日、またしても組まれたストロンボー戦まで41戦無敗、その6日後にはさらに10個の勝利を積み重ねていた。


その年の1119日、ボルチモアでのハーディー・クルスカンプ戦でカルネラは65連勝の巨人と宣伝された。


 
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                            豪快な飛行機投げ

カルネラの468月のプロレスデビューから300連勝といわれた快進撃は494月のアンントニオ・ロッカ戦で終わったとされている。


もちろんこの連勝記録は捏造されたものである。
実はその2年前、47年8月のモントリオール、一流レスラー「ユーボン・ロバート戦」で負けていたという記事がある。


「ロバートが巨人の長い顎に拳を当てると、怒り狂った巨人は背骨に殺人パンチをお見舞いした。その相手はリングに長々とのび、レフェリーは巨人に失格を言い渡した。」



さらにカルネラは479月にトロントで骨折男に負けているし、翌年5月にはテーズの世界王座に挑戦し敗れていた。


当時カルネラはプロレスというものに対しこう言った。


「僕も君も、これがすべてだってことがわかっている。でも、君は楽しんでいて、僕もそうなんだ、だからそこには一体全体どんな違いがあるっていうんだい。」


巨人はそのクマみたいな抱擁で、世界中のすべてを受け入れた。

カルネラを激しく打って知覚障害にしたファイターでさえ、プロレスのリングで巨人の友達の一人になった。


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              ベアとの友情

カルネラからヘビー級王座を奪い、無情に彼を打ちつけたマックス・ベアはデトロイトでのカルネラ対ジョー・デュセックにリングサイド最前列を買って見にきたという。


 
「オーホー!」プリモは楽しげに叫んだ。


 
「マックスはあの晩は本当にエキサイトしていたな。デュセックが僕に拳で強打を浴びせたとき、マックスは飛び上がって叫び、コートを脱ぐと、僕を助けにリングに上がってきそうになったんだ。」



「あれはジョークだったかもしれないし、ひょっとするとおどけてみせただけなのかもしれない。でも僕のことが好きだってことがよくわかるよ。ベアは経営しているナイトクラブに僕を招待してくれて、一緒にショーへ出てはジョークをやるのさ。僕はベアが大好きだ。あいつは本当にいいやつだ。」


 
一戦目でキャンバスにカルネラをすりつぶし、彼に大きなペテン師だと自覚させた元ボクシング王者「ジャック・シャーキー」。
2戦目でカルネラに世界王座を進呈したシャーキーは引退後、財政的に苦しんでいた。
プロレスのリング上で彼は巨人の愛情により何度か利益を得た。
シャーキーがカルネラの試合の一つ、ジュリアス・ストロンボー戦のレフェリーとして雇われた記録が残っている。。
このレスリングの試合でシャーキーがプリモの勝利への監督料300ドルを得ている間、カルネラは興行収入18500ドルの40パーセントを得たという。

※「カルネラはこの伏魔殿とデビュー戦も含め何度も戦っている。」


かつて居場所のなかったカルネラの世界は、今や水平線が無限に続くように開けていた。



そして485月・・・・
これはルー・テーズの世界王座に挑戦し敗れるひと月前のことである。
カルネラの妻ピーナ、息子ウンベルト、娘ジョアンナマリアカルネラはハリウッドに建てられた父の豪邸で永久に住むことを希望して、ヨーロッパからの船旅の途中にあった。


 カルネラは恭しく言った。


 「このことは僕の現在の幸せを、完璧な幸せにするんだ。」


 ※1953年、ついに彼らはアメリカの市民権を得た。
カルネラは副業としてロサンゼルスにイタリアンレストランと酒屋を経営していたという。妻ピーナは不動産投資に熱心なやり手の女であった。息子ウンベルトは出来がよく、後に医師となったそうだ。


 
1949年にカルネラはベネズエラを訪問し、その年は175,000ドル以上を稼ぎ出したという。
そしてその6月には出演映画「マイティジョーヤング」もNYで封切られた。

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        銀幕の中で巨大ゴリラと綱引きで戦うフリークス達。

屈強な男達は釘を折ったり、鉄の棒を曲げたり、電話帳を引き裂いたり、板を割ったりと、それぞれご機嫌なパフォーマンスを披露した。
そしてメインを務める小さなカルネラは、巨大ゴリラによってはるかかなたへ投げられた。

「※彼らの他にも8人が綱引きに加わっている。10人の勇者たちの映画内での紹介順に
①サミー・スタイン②キラー・カール・デイビス③きちがいロシア人イワン・ラスプーチン④ヘンリークーキー⑤サム・メニカー⑥最高の鉄人マック・バッチェラー⑦ウイー・ウイリー・デイビス⑧マンマウンテンディーン⑨スェディッシュエンジェルフィル・オラフソン⑩そして「ファーマーボクシングヘビーウエイトチャンピオン」プリモ・カルネラだ。」


 
カルネラはプロレスを続ける。
翌年5023日には引退していた黄金のギリシア人をシカゴのリングに引っ張り出した。
プロレスリングの技量なんぞを超越した、とてつもない魅力を誇った相手だ。

この「ジム・ロンドス」。


その日焼けしたその美しい肉体はプロレス界のセックスシンボルと称され、アメリカ中の白人女を狂わせたという。


 
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                 過去に何度もMSGを満員にした黄金のギリシア人    



だがこの頃には寄る年波でロンドスの頭のてっぺんはすでに薄くなっていた。


アル中と糖尿で劣化しだしたイタリア大男と弛んだギリシア小男とのビッグマッチ・・・


 
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               大人と子供の対格差だ。



この試合はマックス・ベアをメインレフェリー、エドストラングラールイスをサブレフェリーに置くことで、この2つの世界の元王者同士の闘いを無理やりに煽った。


 「1本目はギリシア人の必殺技が炸裂!」


力の入っていないこのノタノタした逆エビ固めに、セックスシンボルとやらは微塵もない。


「2本目はイタリア人の必殺技が炸裂!」


力の入っていないこのノタノタした胴締めに、怪力無双なんてものも微塵もない。


そして3本目はお約束のように時間切れ。


後出しジャンケンのようにこの戦いを酷評するのは簡単だが、そこに観衆の大歓声がある限り、それは大成功といえるのである。


 
さらにこの年の4月のNY,そして12月のロスで大嫌いなアントニオロッカに敗れている。これがこの章の冒頭に書いたデビューからの300連勝が終わった試合だ。

 
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               鳥人ロッカ、MSGの帝王であった。

イタリアの奇形はこのイタリア移民のアルゼンチン人に対し吐き捨てるようにこう言った。

 
「奴はイタリア人でないぞ、匂いが違う・・・」




 
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                       しかしイタリア系のサンマルチノとは大の仲良し。



                                 
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                                          もう一丁!こちらも後のMSGの帝王だ。

                
                        (動くアルプス⑰に続く)

動くアルプス⑰

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          フランケンシュタインメイクをされたプリモ・カルネラ
    (※1957年、NBCテレビの「 Matinee Theatre」 のフランケンシュタインにて。)


科学者ヴィクター・フランケンシュタインは、墓場を掘り返し、生命の創造という神をも恐れぬ行為に手を染める。

「命というものを自由自在に操りたい!」

創り上げた人造人間はあまりにも醜く恐ろしい容貌だった・・・・。

うんざりのフランケンシュタイン博士は怪物をドイツに置いたまま、スイスに逃げ帰る。

捨てられた怪物は気味悪がられ、誰にも受け入れられず孤独に苦しんだ。

山を越え、そして言葉(神の技)を覚え、自分を捨てた創造主の所にやっとたどりついた。

「博士・・私はあなたを恨んでいません。」

「しかし私はいったい何物なんでしょうか?」

「孤独が苦しいんです。せめて伴侶が欲しい!」」

そして博士にこう頼んだ。

「異性の怪物をつくってくれませんか?」

博士に断られた女好きの怪物は絶望し、それを憎しみと変えた。

悲しき怪物は博士の周りの人間を次々と皆殺しに・・・・


さて、ボクシング界、プロレス界で創り上げられた女好きの怪物の方はどこに行こうとしているのか?

この怪物が怒り狂うような試合がついにやってきた。


「テーズはロッカよりも嫌い」

50年暮れにはサンダー・ザボーと組んでフレデリック・フォン・スカット、タムライス組からNWA世界タッグ(シスコ版)を奪取。

これは翌年の130日、すぐシャープ兄弟に取られるのだが、一応カルネラは両世界で世界王座を勝ち取ったということにしておこう。

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                             フロントネックチャンスリーで有名なザボー

52623日、サンフランシスコ・・・
カルネラは力道山と組み、シャープ兄弟のNWA世界タッグに挑戦して引き分けた。

その年の1218日にはシアトルでテーズのNWA世界王者に再び挑戦、しかしまたしても敗れ、トーツ・モントが望んだ最高峰の王座にはついにたどりつけなかった。

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                               20世紀最大のレスラー、不滅の鉄人!


1950年代の初期に「ボストンガーデン」で開催されたNWA世界戦についてテーズは後に自伝の中で語っている

私はこの時NWA世界ヘビー級チャンピオンベルトを巻いていた。

この試合はイタリア洪水救済の基金を集めるため、ボストンのリチャード・クッシング枢機卿が計画したとても大きな興行だった。

ノーギャラでレスリングをすることは大嫌いだ。
しかしここには断りにくいまっとうな理由があったし、出場を依頼してきたのが良き友人のエディ・クインだったので仕方なく受諾した。

(※モントリオールのプロモーターとして有名なクインは30年代にマサチューセッツ州でこの仕事にデビューしている。ボストンのポールボウザーとはこのころから取引があった。)

メインは私とイタリアのプリモ・カルネラ相手の防衛戦、レフェリーとしてジャックデンプシーが呼ばれていた。

このカードは評判となり当日は大観衆が会場を埋めたよ。

その試合、私にとっては普段通りの仕事になるはずだったのに、あのデカいのがいつもと違う仕事をさせやがった・・・。

 
この試合の一週間前、エド・ストラングラー・ルイスと私はスケジュールをやりくりしボストン入りしたんだ。新聞のインタビュー、TVやラジオへの出演、イタリア人クラブでのスピーチなど我々は1週間宣伝に明け暮れた。

宣伝チームは、私、カルネラ、ルイス、デンプシー、クイン、そしてNYのトーツ・モントからカルネラをブッキングしていたボストンの「ポール・ボウザー」だ。

連日、我々は朝早くからクインのスイートルームに集合してその日のちんどん屋計画を練った。

しかしこの初日の企画会議にあのカルネラの馬鹿はやってこなかった。

ボウザーの部下が言うには夜中遅くに到着したため寝坊しているとのことだったが、そんな嘘はすぐにばれたよ。

あのウスラでかいのは前の晩、早々に到着し、売春婦のような尻軽女を連れ込んでいたのさ。

「そのタイツの中の巨大アルプスを明け方まで何度も握らせていやがったんだ!」

 
その宣伝の週、我々はイタリアへの洪水に対する食糧救援のためにちんどん屋として懸命に働いた。
奴は唯一のイタリア人だというのに、ホテルの部屋から一切出て来なかったな。


試合当日、ポール・ボウザーは朝の会議で、カルネラが試合のプロモートに何の努力もしなかった事を知らされた。

我々の苦情に体を小さくしていたよ。

私は怒っていた。


5分だ!」


私は5分で奴を倒すとボウザーに言った。

ボウザーは私の迫力に諦めたように肩をすくめ、それでいいと力なく頷いた。

その晩、私はボストンガーデンの控室でボウザーがヨレヨレになっているのを見つけた。
ボウザーは困難から酒へ逃げ込もうとするタイプの男だった。
カルネラを彼に貸し出したNYのトーツ・モントが望むフルタイムドローという要求に押し潰されそうになっていたんだ。

すると控室にカルネラとマネージャーがやってきて、私にずうずうしくもそれを要求してきやがった。
次第に双方の声は大きくなり、私とカルネラは拳を固めついに喧嘩になりかけた。

その時、私の古い友人ルディ・デュセック(ルディは子供の頃のテーズのヒーローの一人)が血相変えて止めに入った。


※「アニー・エミール・ルディ―・ジョーで特攻隊デュセック兄弟。テーズが父と一緒に行った初めてのプロレス観戦のメインが当時23歳のルディ・デュセック対ジョン・ピーセックjohn pesek(ペセク)であった。これはテーズが8歳の頃のことある(1924年あたり)。当時30歳のネブラスカの虎ピーセックは20年代を代表するポリスマンだったという。」

 
ルディはトーツ・モントとも付き合いがあったが、常に私とはうまくやってきた。

私とカルネラが一足早いコンテストをやらかそうとしているのを見ると、ルディはそこにいた観客達を控室から追い出したよ。

 
ルディは1人で戻ってきて、なにが起こっているのかと私に尋ねた。

ボウザーが朝に私と合意したことをモントに押され変更しようとしていると説明した。

ルディは私を落ち着かせ考え直すよう説得してきた。

しかし私のはらわたは完全に煮えくり返っていた。

その怒りがなんとかおさまったのは、リングに登場する時間になってからだ。

控室のドアを開けリングに向かう時になって、私はその45分間の試合にやっと同意した。私はルディの顔を立てることにしたんだ。

チケットはもちろんソールドアウトだ。
私がリングに上がったとき、すでに場内は沸きかえっていた。
レフェリーのデンプシーが我々に握手をさせた。


そしてゴングが鳴り、その悲劇(喜劇)は始まった。

カルネラは控室での口論を根に持っていて、そのロックアップには生意気にも私を壊そうとする敵意が入っていた。

私は反射的にそのデカい頭を左手で強く締めたが、手首の固いところが偶然カルネラの唇を切った。

カルネラはそれを乱暴に振り払った。
そして口元をぬぐい、その血を見て怒りを爆発させたんだ。

うすのろな暴れ牛は突進してきたが、奴の力をうまく利用しコーナーへ押し込んで動けなくしてやった。
当然デンプシーがブレイクを命じたんだが、離れ際に頬を力いっぱい張り飛ばしてやった。

 さらにカルネラは怒り狂ったが、頭が悪いのか私が誰かなのかということを分かっていなかったようだ。
そして私は自分の母国の問題だというのに、何の協力しなかったこの馬鹿との茶番を、一刻も早く終わらせることに決めたのさ。

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                             怒り狂ったカルネラが怪物に変身!!
 
カルネラはジャブを思い切り私に打ち込んできた。

しかしそれは固まりかけの蜂蜜よりのろまで、私には届かなかった。

なぜこんなウスノロが世界王者として売り出されたのか、私には理解できなかったよ。

カルネラの顔に手が届く範囲まで間合いを詰め、もう一度からかうように張手を食らわせた。そして素早くステップバックし、デンプシーの方を向いて私はこう言った。


「この役立たずはレスリングができないばかりか、戦うことすらできないぞ!」

 
元ボクシング世界王者、拳聖デンプシーは客に聞かれないよう小声で答えた。

「ああ、そんなことは我々の方が遠い昔から知っているさ。」


カルネラが左の脇を開けたとき、私は踏み込みその隙間へにゅるっと頭を突っ込んだ。

奴が反射的にヘッドロックに来たその瞬間がジ・エンドだ。

私は普段使うことがない危険な落とし方で奴の後頭部を思いっきりキャンバスへ叩き付けてやったよ。

 失神したデカいのに覆いかぶさった。

デンプシーが仕方なくスリーカウントを入れた時の、ルディの頭を抱えた表情が今でも忘れられないよ。


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                クソ、デンプシーめ・・、お前はレスラーであるテーズの味方なのか!
 
カルネラは数分間、起き上がることができなかった。

そのあと、ルディ・デュセックが苦虫を噛み潰した顔でドレッシングルームに戻ってきた。

「テーズ、お前は何をやらかしたか分かっているのか!来週もこのうすらでかいのでメインを予定してるんだ。この役立たずの代わりはどうすりゃいいんだ?」

私はタイツの埃を払いながらこう言った。

「じゃああんたが代わりを勤めればいいさ。歳は食っていてもあんたの方がずっとマシだろ。」

ルディは憮然とした表情を保とうと努力したが、とうとう堪えきれずにに吹き出したよ。

「※どこで見たか失念したが、昔これに似たような話を聞いたことがある。
カルネラがその町一件しかないモーテルを取り巻き達と借り切りどんちゃん騒ぎ・・・
結果的にテーズ達仲間レスラーを締め出した。怒ったテーズが試合でバックドロップ!
落とす瞬間角度を変え故意に片方の肩から突っこませるものだったという。脱臼したカルネラは、その痛みから立ち上がることができず、マット上でイタリア女のように悶えまくったという。

  
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                                     黒帯?                 

                                                  

「肉体だけでなく心まで肥大し、調子に乗り過ぎたプリモ・カルネラ・・・」

プロレスというフランケンシュタイン博士が創ったこの怪人は、鉄人によってあっけなく退治された。

      (動くアルプス⑱に続く)




動くアルプス⑱

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昭和時代、日本の子供たちの遊びでもカルネラはわりと人気




「天使対決」

 
コロラド州デンバーで2人の奇形と戦っている。

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                   1938年、Sing Sing Talun (Wladyslaw Talun)がNYでダンサーと


1949年3月21日、コロラド州デンバー
相手は203㎝の大男「Sing Sing Talun 」。
リングネームにはシンシン刑務所が関係しているのであろうか?
彼はポーランド天使「ポリッシュ・エンジェル」としても知られている。


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                               こんな二流に俺様は負けないぞ


プリモ・カルネラ(2対1)Sing Sing Talun
イタリア天使はこのポーランド天使を吹き飛ばした。


そしてその翌年、1950年1月2日。
デンバーのマンモスガーデンでマンモスのようにでかい男と対戦だ。
この対戦に4000人の観衆が集まった。

「相手はこいつだ!」



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かっこいい・・・



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                            うんうん

イタリア天使とスウェーデン天使(フィル・オラフソン)の戦い。
過去のデンバーに行きたくなってきた。

1本目は6分53秒でスウェーデンの勝ち
2本目は5分3秒でイタリアの勝ち


そして3本目は・・・・?
                       

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      クソ、とーしろが!この男はモーリス・ティレじゃなくフィル・オラフソンだ!


カルネラ(2対1)スェディッシュ・エンジェル
       
まあモーリス・ティレに名前を間違えられるような男がカルネラに勝てるはずもなく、3本目はカルネラの反則勝ちであった。

※フランス天使とスウェーデン天使は良く混同され、上の写真ように間違われている場合があるので注意。
このスウェーデン天使はオラフ・オルソンであり、オラフ・スエンソンでもある。 他にもポパイ・フランケンシュタインなんてひどいリングネームも名乗らされた。


おまけ


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              相手のキーロックに表情だけでなくなぜか頭の形までゆがむ天使!


まだまだ続く奇形対決・・・

それは51年9月ドイツ・フランクフルト。
この相手のデカさはいくらカルネラでも手に余る。




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ドイツの大巨人(兵役にて)

相手の「‘ガルガンチュア’クルツ・ツェッヒ」。
彼はプロレス史上最高身長のドイツ巨人だ。
日本の昭和のプロレス雑誌でも最高身長だと紹介されていたので当時から名前だけは知っていた。
その身長はなんと253㎝・・・・(いくらなんでも盛り過ぎだ)

昭和時代、私は、彼の写真を見ることをいつも夢見ていた。

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          Kurt Zehe対Strangler Bright  ↑
       動画で残るツェッヒの勇姿・・・・ひどい試合だ。



←ドイツ巨人のコートにはブルーシート並の生地が必要だ。








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寝させれば身長差はなくなるというプロレスの格言を固く守り、ドイツ巨人を寝技で攻めるイタリア巨人・・・・

イタリアの天使はそのドイツ天使の長い頸を鈍重な重いパンチで破壊した。

※「ツェッヒの靴のサイズは58cm、頭のサイズは68cm、身長は2.14m(または2.18m)との説もある。」



そしてついに世界が待ち望んだ史上最高の奇形との一戦が組まれた。


52124日、コネチカット州ハートフォード・・・・



「こいつだ!」

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そう、相手はあの「‘フレンチエンジェル’モーリスティレ!」

このティレがポール・ボウザーにアメリカへ連れてこられ、あのセンセーショナルなデビュー戦を行ったのは40124日である。
場所はテーズにカルネラがひどい目にあわされた前出のボストンガーデンだ。

↑ティレについて参考までに

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カルネラはこの3つ年上の人気者「フランス天使」に勝利した。
重度の末端肥大症のティレはこの時には軋んだ体の48歳・・・
すでにこの天使は新しいスターたちの負け役になっていた。

この愛すべきフリークはこの2年半後、3つのデスマスクを残し、その「障害」を閉じた。

※この「ティレ対カルネラ」のちょうど12年前に、フランス天使はヨーロッパからアメリカにやってきた。カルネラはさらにその10年前の1930年、ギャングの水揚げによりボクサーとしてアメリカにやってきている。」


          
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                          列車を引いて怪力披露、かわいい

 

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本当に良い笑顔だ。子供も大好き


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                            モーリス・ティレの子供時代の写真



そしてその3年後、カルネラは日本まではるばるやってきた。

カルネラはジェス・オルテガと共に19557月(昭和30年)、日プロのプロレス国際試合に唯一の来日を果たした。
49歳、衰えきったカルネラへマネージャーのように傍らについたのがハーディ・クルスカンプである。
その時の公開練習でクルスカンプの禿げ頭に滑りそうなヘッドロックを決めるカルネラの写真が残っている

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      公開練習、対クルスカンプ(エプロンにはそれを眺める髭面の阿部脩)


7月15日の開幕戦は、力道山・東富士対カルネラ・クルスカンプ(21.で日本組の勝ち)。これは日本テレビで生中継された。(午後7時45分~9時30分)



 
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                 組み合う前にぴょんと飛ぶ力道山
                 カルネラの背に負けるものかと(開幕戦のタッグマッチで)


16日にはカルネラは遠藤とのシングル、長い脚を使った得意の胴締めからの体固めで勝利した。日本テレビ(午後8時~9時30分)生中継

来日クライマックスは717日蔵前での力道山戦だ。日本の英雄はその殺人パンチに苦戦したといわれるが、私は見ていないので何とも言えない。(力道山の20で勝利)。
日本テレビ(午後8時~9時30分)とNHKテレビ(午後8時~9時45分)生中継

そして7月24日には再び力道山とシングル(大阪から生中継)
日本テレビ(午後8時~9時30分)とNHKテレビ(午後8時30分~9時45分)

まあこの露出度からすると冒頭の写真のように子供のおもちゃにもなるわけだ。

カルネラとクルスカンプはシリーズ終わりを待たず29日に一足早く帰国している。
ちなみにシリーズ最終戦東京体育館ではオルテガが力道山にソンブレロとポンチョを進呈した。


「そしてカルネラももうすぐ50歳・・・」


長々書いてきたこの物語もそろそろ終わりを迎えようとしている。

(動くアルプス⑲に続く)
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